多恵子の留学記

 

2019年7月から藤井多恵子の留学記をスタートします。

50年余り前のカルチャーショック、驚き、

そして今でも新鮮な声楽のレッスン、

人生を変えてくれたアメリカ生活等を

順次お伝えしようと思います。

どうぞお楽しみください。 

 

毎月20日更新>

 


No.55 “さようなら”Ⅱ

原爆を落とした「鬼畜アメリカ」に乗り込んだ私、そして原爆

研究にも携わったデュポンに就職した主人との出会いは

不思議な始まりでした。

私達が居た間に黒人問題、反戦運動、ヴェトナム戦争、

大統領の銃殺等を経験し、移民問題があのバーンスタインの

話題作ウェストサイドストーリーを生んだのです。

新聞をとってもスヌーピーの漫画とA.ランダースの人生相談欄

しか読めなかった私の青春時代はアメリカ音楽のルーツ、黒人

音楽と教会音楽に導かれていつのまにか15年を過ごしました。

ガーシュインのサマータイムが歌えるようになったのはN.Y.で

石段に座って授乳していた黒人女性の顔に流れる涙の様な汗を

見てからでした。家の中にはクーラーもなかったのでしょう。

 

アメリカに残る2つの問題、黒人問題と銃規制は簡単には

無くならないでしょう。ピアニストのナンシーが立派な家の

ベッドルームの引き出しにピストルを入れていたのを見た時は

ショックでした。

「自分の身は自分で守る」と言うのが祖先からの生き方だと

真面目に微笑みながら言う彼女の常識に怖くなったのを

覚えています。

そうなんです、銃はコンビニで買えるのです。

 

猫を連れて帰るのは大変でした。体重によって基本の飛行機代が

違うのですが、荷物扱いにすると投げられたり、冷暖房のない荷物

室に置かれると言うので私の座席の下に載せてもらう事にしました。

何か事故があった場合を考慮して1機に動物は1匹、と言う事で

大分前から予約したのを覚えています。

18時間位鳴きっぱなしで前方の席の男性が”お、猫の声がするが”と

スチュワデスに言って居ました。私はケージに指を突っ込んで撫で

続けて知らん顔していましたっけ。

渋谷の家に着いた途端にジャーとすごいおしっこをしたと思ったら

階段を駆け上がって行きました。

がまんしていたのでホッとしたのでしょうね。

 

朗は当時マーキュリのクーガーと言うしゃれた車を持っていて

最後まで持って帰りたいといっていましたが外車は此の狭い角を

曲がれなかった事に気が付き、新しい勤め先、三菱化学に忠実に

三菱の小さい車を買いました。

全てが笑い話のような日本人生活が始まったわけです。

今日の私があるのはすべてアメリカからもらったものです。

アメリカ大好き。アメリカ有難う。

 

★次回から “TAEKO's Childhood” をご覧ください (*^ ^*)


No.54 “さようなら”Ⅰ

永いアメリカ生活でお世話になった方達に心ばかりの御礼をしよう、と

“テンプラ&スキヤキ”のホームパーティーを計画しました。

何と30人も見えて狭い家は立食でも満員になりました。

朗と私で2か所で2種類をどんどん作りましたが、当時はまだ

日本食が今ほど知られていなかった事もありとても喜ばれましたが

”May I have ketchup(ケチャップは)?”と聞かれた時はちょっと

ショックでした。何にでもケチャップを掛けるアメリカ人です!

それにしても今思うと半日がかりで食事の用意、場所を作り、

皆さんのコートや荷物置き場に寝室のベットルームを空け、ハンド

タオルやナプキン、グラスや飲み物5種類、酒マルティー二を作り、

掃除機を掛け、二人共ちょっとドレスアップしてソファーに座って

お客様の到着を待つ、“さあ、どうぞ”と言うあの瞬間は何とも言えない

よい数分でした。夫婦で準備して接待する事の大切さを実感しました。

そうそう、誰もお土産なんか持ってこないけれど、必ずお礼の電話や

カードが来る、と言うのも好きでした。

 

考えてみると、日本に居たら何万円かでチケットを買わなければ

ならないような遠奏家達、カラスやセゴヴィア(ギター)、その他大勢の

演奏を生で聞き、ルビンスタインと列車の駅で出会ったり駐車場に

ヴァイオリニストのスターンが居たり、私自身もコステラネッツや

フィードラーの指揮で歌わせてもらったり、オペラの主役も沢山歌わせて

もらったり、と得難い経験を積めたのはアメリカ留学のお蔭でした。

移民の国だけあって、色々の国の言葉で歌う事を学び、ユダヤ人、

アラブ人、ドイツ、イタリア、フランス、等の文化に接する事が出来たのも

アメリカと言う国に行ったからだったと今になって思います。

残念だったのは音楽に夢中だったので、下宿の目の前がボストンレッド

ソックスのホーム、フェンウェイ野球場でしたのに一度も行かなったこと

くらいでしょうか。

でもアメフト見学用の暖かーいモコモコのコートは買ってきました。

今もここにありますが東京では暖かくて着られません。


No.53 アメリカ生活で学んだ日本との違い

アメリカ人にとって、東洋人の中で日本人は最も行儀が良く、

トラブルもなく、真面目でよい、と思われています。

アパートを探す時も日本人ならよいに決まっている、

黒人はお断り、ガーリック料理が多い人達は困る、等 

家主のルールで無いルールがあったようです。

 

アメリカで経験し学んだ次の様な違いには興味があります。

1:音楽においても実力次第のオーディションに始まり、
 持久力はすごい。疲れても劇場の床で寝てしまって夜中まで練習。

2:えばるでもなく、おどおどするでもなく、上下関係を保ったまま
 学長や社長から話しかけてくれる。

3:自由で開放的な考え方、よく知らない人でも自宅に招いてくれる。
 援助してくれる。家が狭いから、御馳走が無いから、着る物が無い
 から、と山海の珍味を用意した上で、選ばれた人だけが呼ばれる
 日本とは違う。エンターテインメント根性、もてなしの心が違う。

4:規則より臨機応変な心持ち。交差点で老人等が渡りきれないでも
 車はブーブー鳴らさずに待ってくれる。妊婦や病人の搬送には
 逆走したり、私の医者は戦争で日本にひどい事をしたのだから
 診察料はいらないと言った。

5:エチケット、心、愛、の考え方が違う。他人の子供でも正しくない
 ときは叱る。叱った後は抱きしめる。男の子は小学校から女性を
 大事にする事、ドアを開けて通す事等を学ぶ。

6:寄付が大切な国。寄付に寄って学校、病院、オーケストラや
 オペラも成り立っ事を知って寄付をためらわない。

7:サーヴィスの意味が違う。買い物も自分で選ぶから店員が
 付きまとわない。丁寧に包むより回転をよくするために紙袋に
 ポイと入れてくれるだけ。包装を頼む人には別の窓口がある。
 だからお世辞も言わない。来てほしくないのに「お遊びに
 いらして」は無い。

8:食や衣より“住”を大切にする。足が冷たい、朝布団から
 出られない等は無い。トイレや台所も暖かい。日本人のように
 ダイアモンドを欲しがったりせず、快適な生活にお金を使う。
 アメリカの男性の理想の生活とは「アメリカンハウスに住み、
 中華料理を食べ、日本人妻をもつこと」だそうな。


No.52 帰国に向けて

思えば20代で留学した私は40代になっていました。

一生の一番大切な時期をアメリカで過ごせた事は

本当によかったと思っています。

新しい言葉、知識、を柔軟な頭で吸収出来たのですから。

在米中多くの日本の年配の学者や会社の偉い方が短期

留学と称して大学や会社から訪米され、通訳から案内、

送迎迄をお世話をしましたが、失礼ですがあれで訪米した、

留学した、と言ってもいわゆる「ハク」をつけるための

観光旅行をされただけなのでは、と思いました。

偉い大学教授でも会話がまったく出来ないだけでなく、

白米を食べないと駄目だと日本の電気釜を持って旅行して

いらっしゃる方も居られちょっと笑ってしまいました。

日本の英語教育、国際人としてのエチケットの教育、が不十分

であったのを見るにつけ、若いうちに留学出来た事に改めて

感謝しました。

一方で10代からアメリカに来ていると言う若者達にも出会い

ましたが、日本人でもアメリカ人でもないアメリカナイズした

変な感じの人間で、「通訳」という安易な仕事をしてやたら

ぺらぺら英語をしゃべっているのはあまり良い感じでは

ありませんでした。

ちゃんと日本で大学を出てから、目的を持って留学する事、

日本人だという誇りをもって過ごす事、アメリカ人の2倍努力

する事、憧れや夢を追うだけではなにも成就出来ない事、を

これから留学する方たちに言って置きたいと思います。

 

 

さて「日本に帰ろうか?」と言う事になってから私達は却って

忙しくなりました。

朗は自分の研究を論文にまとめ、私は来年のオペラ公演の

約束をどうするかなど。

一番喜んだのは何と言っても両親でした。

もう一生帰らないと思っていた娘が立派なお婿さんを連れて

帰ってくると言う事は一大事件だったようです。

特に父は娘3人しかいなかった所に新しく息子が増えて、

自分達が生きている間に娘と一緒に帰ってくる、

きっとすごく嬉しかったでしょうね。


No.51 充実したデラウェアの8年

最初に独立した州、デラウェアには古戦場があって

今は記念公園となり大きな大砲が並んでいます。

私達がいた間に建国200年の行事があったわけ

ですから日本と比べたら本当に若い国です。

若い国では若い事、若者、が大切で、日本の様な

年長者を敬う、習慣は薄かったように感じました。

今や日本でも我々高齢者はあまり大事にされ無く

なったような気もしますが。

渋谷を歩く時もぶつからないように小さくなって

歩いている私です。

 

デュポンには朗の他に3人の日本人化学者が居ました。

朗と一緒に貨物船で留学生の走りとして渡米した

福永さん、理研から派遣されてきた杉山さん、そして

少し年配の面白い小父さん、竹下さんでした。

私達日本人たちは御正月にはおせち料理らしきものを

つくって着物を着て集まったり、思う存分日本語を

しゃべりながらトランプゲームや花札で遊んだことも

ありました。

竹下さんは化学の博士なのに市の芝居に役者として

出演したり、釣ってきた魚をさばいて庭の木に下げて

干物を作ったりしておられました。

「竹下の家にはとても面白いクリスマスツリーがある、」

とデュポン内で有名になりました。

お子さんたちは日本語ができないので引退後はハワイに

住んでおられます。

杉山さんは理研に戻られ、福永さん一家は永住権を取って

デラウェアのホームに入られお子さんは白人男性と結婚、

素敵なハーフのお孫さんもいらっしゃいます。

私は音楽活動も私的な生活も此の8年間が楽しくて

きっと朗もこのままで幸せなのだろうと思っていました。

彼の地位も収入もあがっていましたから。

男性は40歳を過ぎると将来の事を真剣に考え出すので

しょうか。私達はややこしい手続きをして永住権も

持っていましたのにある時急に朗が言ったのです。

「僕、日本人だよなー。やるなら日本の為にアメリカで

学んだノウハウをいかすべきだよな。」と。

青天のヘキレキでした。


No.50 デュポン家

アメリカは大きいので東と西では3時間の時差があります。

モロコシ畑ばかりの州や凍りついた州や常夏の州、

海もデパートも見たことがない人が住む山ばかりの州、

そしてビルの林のニューヨークなど。

デラウェア州はデュポン家の州と言っても良いでしよう。

小さな州ですがバイデン大統領の出身地と言う事で有名です。

私たちの家からすぐ、普通のお家の普通の政治家の小父さん

だとずっと思っていました。

デュポン家は市内の殆どの経済を動かしているようでした。

ホテルデュポン、シアター、公園、病院、学校等々に

デュポンの名前がついていて、一族の歴史を語るヘイグリー

博物館は観光名所にもなっています。

私が関わったオペラやオーケストラ、音楽学校等々の

スポンサーにもデュポン家の名前が入っていただけではなく、

デュポン本家の御曹司が照明係をやったり奥様が衣装係で

活躍したり、クッキーを焼いてきたりするなど、大富豪と言う

イメージとは違う面を見たのは嬉しい事でした。

彼等がマイカーを運転して、召使いが居るお城のような家に

帰って行く姿が何とさわやかだったことでしょう。

お蔭でここでは私達のようなアジア人であろうと、黒人であろうと、

デュポン勤務と言うだけで銀行でもデパートでも信用度が高く、

大切にしてもらったのは私達の心の底にあった劣等感みたいな

ものを吹き飛ばし、自信を持ってそれぞれの化学と音楽の道に

一層まい進出来たような気がしています。


No.49 ウィルミントンの生活

ここで私は生涯の友、ピアニストのナンシーと出会いました。

御主人はやはりデュポンの研究員、戦争の時には進駐軍として

日本に居た事もあるとかで私の事を「イチバンサン」と呼んだり

「ステキ」を連発する方でした。

日本語で最初に覚えたのは「便所はどこですか?」だったそうで

なるほどこれは大事な言葉だっただろうと言って笑いました。

演奏旅行もいつもナンシーと一緒、家族のお付き合いでしたが

そのフィリップも朗も天国へ行ってしまいました。

ナンシーも私も未亡人になりましたがずっとメールや

クリスマスカードでつながっています。

 

ここはフィラデルフィアの隣、そしてAMTRUCKと言う列車に

乗ればニューヨークもすぐだったのでレオ タウブマン先生の

レッスンを受けに通いました。

日本に帰ってから後悔したのは何故ニューヨークでダンスも

習ってこなかったのかということです。歌って演技をして

踊れる人になりたかったなあなどと思って居ます。

メトロポリタンのオペラもよく通い、カラス、コレルリ等の生演奏を

聞けた事は勿論すばらしい経験でしたがメトのGP(総練習)を

タダで観られたのはかえがたい勉強になりました。

当時の総監督のビング氏が途中でぱっと練習を止め些細な事まで

修正するのがとても面白くて、なるほど、と思ったものでした。

上の座席は音楽学生の為に譜面台もそなえてあり、

これもいいなーと思ったものです。

 

ウイルミントンでは初めて自分達でタンス、鏡台、ベッド、ミシン、

そして念願のピアノを買いました。

wall to wall(敷き詰め)の絨毯を持ってきた小父さんが日本で

第一生命ビル(マッカーサー本部)の白いヘルメットをかぶった

MPだったと聞いて、あのえばっていたMPは絨毯やの

小父さんだったのか、と時代と立場の違いでどちらがペコペコ

するかが変わるのだなーとこれも面白く感じました。

もう50年も昔ですが、当時アメリカではチンや大型の冷凍庫や

洗濯機、乾燥機があたりまえだったのです。

 

「レッスン代がないからこれで、、」とシャム猫の子供を持ってきた

生徒さんが居て以来帰国してからも19年に渡り猫が私達の

家族になりました。「ネコちゃんが、、」と言っているうちに名前も

ネコちゃんになってしまいました。

アメリカ人たちは“Nice name!”といってくれましたが「キャット」

と言う意味とは誰も知らなかったと思います。

猫にもパスポートみたいなのがあって予防注射の事以外にも

洗礼名とか、目の色等書き込んでありました。羽田空港で

「ツカモト-フジイネコちゃん様ー!」と大きな声で呼ばれて

荷物受取り場所に笑いをこらえて走って行きましたっけ。

 

ちょっと悲しい事もありました。

クリスマスの日に私が流産してしまったのです。

ドクターがわたしのほっぺたをたたいて“Merry Christmas!”と

おっしゃった時私が最初に見たのは先生の蝶ネクタイで

緑とあかのヒイラギの毛糸のネクタイでした。先生は大事な

家族とのクリスマスを私の為に犠牲にしてくださったのです。


No.48 デラウェア州、ウィルミントン市へ

引っ越しは小さなフォルクスワーゲンにぎゅうぎゅうに荷物を

詰め込んで7時間ほどのドライブで無事終わりました。

と言う事は大して家財道具もなかったと言う事です。

それまでのアパートは家具付きでしたから。

足元には幾つかのアフリカスミレの鉢を倒れないように

足ではさんで変な姿勢の旅でした。

デュポン家はフランスの移民で独立戦争では爆薬造りで

財産を作り娘はロックフェラーと結婚し、第2次大戦の時は

原爆の研究もしたそうでアメリカの大富豪の一家です。

劇場、ホテル、博物館から公園のような庭園、お墓には大きな

時計台、お屋敷の塀には輸入ワインのかけらが泥棒よけに

並べてあり、本家の門からお屋敷の玄関までは車でぐるぐる

登らなければならない、と言う感じでした。

研究所にはPHD(博士号)を持った人が2000人働いていました。

そんな研究所の所長は自分でマイカーを運転して誰よりも早く

出勤し、門衛や掃除のおばさんにまで“Good Morning”と声を

掛ける方でした。研究のテーマも自由に決めてよく、儲けに

関係ない基礎研究をさせてくれたそうです。

すばらしい発見は偶然が生むのだから、と言う事でした。

日本と比べて考え方が違うのはお金の問題だけではないように

思います。

 

デラウェア州はお金があるからなのか、消費税が0なので

ニューヨークやワシントンから大きな買い物をする人達は

わざわざウィルミントンまで来て買い物をしていました。

私達も生まれて初めてカードで買い物をし、サイン一つで

分割払いができる事を知りました。

 

私はすぐにウィルミントン音楽学校で声楽を教える事になりました。

地方新聞には主人の事と一緒に私の事も写真入りで出たので

すぐに市のオペラ団やフィラデルフィアのオペラ団から

お声がかかり沢山の新しい経験をする事ができました。

デラウェアにはブランディワイン川と言う素敵な名前の川があって

その川の上をまたぐようにシアターがありました。そこはディナー

ショーを見せる劇場で私も数週間にわたって“フラワードラムソング”

(ナンシー梅木さんがアカデミー賞を取ったミュージカル)を演じ、

ロングウッドガーデンの野外劇場でも“ローズマリー”を何千人もの

お客様の前で歌う事ができました。

大理石の野外劇場なので夕立ちがあった時は先ずオーケストラの

弦楽器の人達が楽器を抱えて退場してしまって雨が上がってから

続きをやったこともありました。

“フラワードラムソング”は中国の女性が密入国してアメリカに来る話し

でしたが結婚式の場面があって中国人の方が本物の結婚衣装を

貸して下さいました。黒地に金銀の刺繍があるロングチャイナドレス

でしたが、日本でもおめでたい時に黒紋付を着ると言うのは

中国からきたのかもしれませんね。


No.47 Oyster for Supper”(夕食は牡蠣で)

バッファロー大学に特別講師として作曲家Virgil Thomson

(1896-1989)が来られ、彼のオペラ“Mother Of Us All”、

自由主義の女性Gertrude Steinの一生、が

急きょ上演されました。

私の役はAngel Moreという田舎の娘で歌は一言

“Oyster for Supper”だけ、お祭りで踊りながら急に

台に飛び乗って歌うのでした。たったこれだけなのに、

いや、短いので入りを間違えたら次の人が歌えなく

なってしまい、こんな緊張した事はありませんでした。

トムソンの音楽は難しく、新しく、足の指まで使って

数えました。

今でも牡蠣を食べる度に“Oyster for Supper”が

口から飛び出します。

彼のサインもいただいて親しくして頂いたのですから

文句は言えませんが、今思い出しても綺麗な音楽

だったとは思えませんでした。

私は音楽って綺麗で心を打つ物が好きのようです。

 

アスペン音楽祭の帰りのお話もしなくてはなりません。

デンヴァーからニューヨークまで偶然ホッター先生と

同じ飛行機になりました。勿論私はエコノミー、

先生はファーストクラスです。

しばらく飛んでいる間にあの大きな体のホッター先生が

しょんぼり座っている私の席の所まで来て「大丈夫?」と

声を掛けてくださったのです。

ドイツ否世界のバス歌手が日本人留学生の事を

気に掛けてわざわざ来てくださったのがすごく嬉しく

感激しました。

先生とのお付き合いは続き、アメリカに“ルル”を歌いに

来られた時も招待して下さいました。

今は亡き先生のよい思い出です。

人格も音楽も備わった素晴らしい先生でした。

 

さて主人の転勤でデュポン社の中央研究所がある

デラウェア州に移る事になりました。気候も温暖で

隣り街のフィラデルフィアはオペラやオーケストラでも

有名な所ですから私は大喜びでした。

最初にアメリカ独立をした州なので別名“ファースト ステイと”

と呼ばれる所です。

海に面して居るので名物は脱皮したばかりの蟹をゆでて

バターたっぷりに付けて食べるのです。おいしかったー!

ちなみにデラウェア葡萄は此の州とは関係ありませんでした。


No.46 タングルウッドとアスペン音楽祭

タングルウッド音楽祭は7月と8月に美しいタングルウッドの森で

バーンスタインとボストンシンフォニーが演奏会を行うと同時に

若い音楽家達を訓練することで有名です。

ボストン大学の学生たちは1台の車に乗れるだけのって

毎夏たのしみに通いました。

小柄な私はいつも誰かの膝の上にのっかって(もちろん交通違反)

行ったものでした。

アメリカ中から集まるお客は野外テント内の座席券を購入するか、

外の芝生に椅子を持ってきたり、寝転んだりして聞けるのですが、

有名なサンドイッチボックスがあってそれを食べながら、若い

男女は抱き合いながら音楽を聴ける、と言う素敵なイヴェントです。

セミナーに参加するにはオーディションがあり、

私が行った時はシェーンベルグを初見で歌わされました。

その年の声楽教授にはフィリスカーテイン女史がいらしたのを

覚えています。

日本に帰ってからもタングルウッドの夏が恋しくて

夏だけもどったこともあった位懐かしい夏の音楽祭でした。

 

アスペンはコロラドの山の中、夏でも少し雪が残っていました。

大きなツノのあるムース(サンタクロースを引っ張る鹿)と

出会ったこともあります。

此方も7月から8月までで、デンヴァーまでは飛行機で飛び、

あとはバスに揺られて8000フィートまで登ります。

周りにはレストランもないので学生用の寄宿舎に泊りました。

此方は特定なオーケストラや指揮者がいるわけでなく

世界中から有名な音楽家が集まりコンサートを毎晩開いて

くださり、昼間は私達を教えて下さるのです。

ここで私はハンスホッター氏にシューベルトやシュトラウスを

たっぷり習いました。その年にはピアテゴルスキー(チェロ)、

フォレスター(アルト)、ペンデルツキー(チェンバロ)、

ヅッカーマン(ヴァイオリン)、等が来ておられ、

毎晩すばらしい演奏に夢のような日々を過ごしました。

休みの日には初めて知った”へイライド”にも行きました。

ヘイ(枯れ草)の山を積んだ車の中に潜り込んでドライヴし、

美しい湖のほとりで若者たちが愛し合う、、、

何も知らない私はキョトンとするばかりでしたが

これも忘れられない思い出です。此の音楽祭の最後には

モーツアルトのレクイエムをソロモン氏の指揮で

オーケストラとソリスト(ホッター先生はバス)セミナー生の

大合唱で閉めました。

アスペンも野外テントのコンサートでしたが毎日満杯の

お客さまでした。

今お客集めで苦労する私達ですが、どうやって人集めを

したのか、宣伝しなくても音楽を聞きたい人がコロラドの

山の中まで集まったのか不思議です。

 

最近日本でも夏の音楽祭は行われているようですが

2カ月もの間毎晩音楽会ができるシステムがどうなって

いたのか半世紀たった今もわかりません。

寄付、パトロン、スポンサーが日本とは違った時点で

根付いているのだろうと思います。

そして文化、音楽への愛が違うのではないでしょうか。


No.45 北国の春そして夏の音楽祭

バッファロー市はニューヨーク州の北端、カナダとの国境に

あるので、五大湖と呼ばれるエリー湖やオンタリオ湖の上を

通る雲が湿気を吸い込んで此のあたりにドサッと雪を落として

ゆきます。

教会に行くのにハイヒールをはくのですが、ハイヒール用の形の

ブーツがあって冬の四カ月位はそのブーツを手放せませんでした。

教会の入り口ではそのブーツを外せばハイヒールで入れるわけです。

強風の日には交差点に綱引きの綱のような物が張られ、

しがみついて渡ったのも今では良い思い出です。

当時の私は100ポンド(40キロくらい?)に足りないひょろひょろで、

今は痩せたくても痩せられないのに、[桜エビ](small shrimp)と

呼ばれていましたので風で吹き飛ばされそうでした。

 

長い冬の後、日本の様な四季がないので人々は急に半袖姿になり

花を買い占め、蟻が穴から出て来たように急に活動をはじめます。

御婦人方の夏の帽子は本当にきれいで花園を見ているようでした。

 

夏休みはゆっくりしたいと思っていましたがスポンサーの

フルブライト財団から夏は各地で行われる夏の音楽祭に行って

寮で合宿しなさいと言って来ました。

特に有名なのがマサチューセッツ州のタングルウッド音楽祭、

コロラド州のアスペン音楽祭等です。

全世界から音楽ファンが避暑を兼ねてやって来て美しい

自然の中で芝生の上に寝転んだりサンドウイッチを食べながら

音楽を堪能するのです。

一方若い音楽家はオーディションで世界の有名な先生方の

レッスンを受けられます。ピアノ、声楽、弦楽、室内楽、指揮等

広く指導を受けながら合唱やオーケストラにも参加します。

小澤征爾さんもタングルウッドでバーンスタインに認められた

お一人です。

合宿が苦手な私は始めちょっといやだなーと思ったのですが

得難い経験ができ、参加してよかったです。

音楽祭の夏の終わりのコンサートには私達も合唱で参加、

涙でお別れしたものでした。タングルウッドにもアスペンにも

参加できましたが、その素晴らしい内容については次回に

お伝えしたいと思います。


No.44 ナイアガラの滝

地図を見て下されば解ると思いますがバッファロー市は

あのナイアガラの滝のすぐ隣の街です。

世界中から来る観光客はバッファロー空港に到着するのです。

典型的な日本の小父さん達の団体もお揃いの様なネズミ色の

スーツ、黒ぶち眼鏡、カメラを提げてぞろぞろやってきました。

当時はまだバッファローに住んで居る日本人が居なかったからか

私達はまるで日本人の為の観光案内所のようになっていました。

奥さんのお父さんの会社の上役、とか、およそ私達に関係ない

方の案内を頼まれて何回ナイアガラ案内をした事でしょう。

空港への送迎、滝へのドライヴ、外米をぽろぽろこぼしながら

おにぎりを作り、丸一日知らない日本の方におつきあいしました。

そう言う方に限ってお礼の葉書も来なかったのはちょっと残念

でした。

 

ナイアガラの滝のすごさは言葉では言い表せない位で、

ホースシュー(馬蹄)と呼ばれてカナダとアメリカにまたがって

半円のようになって流れ落ちています。と言う事は国境を

超える検問もあり、案内するのも大変でした。

滝壺へ巻き込まれた人で助かった人は居ません。

滝の上の柵から見ているだけでも引き込まれそうでこわいくらい、

マリリンモンローのナイアガラ自殺もその頃大きなニュースに

なりました。大量の水がどこから来るのか自然のすごさを

見せつけられましたが、冬には水しぶきが凍って凍花が

沿岸に広がりそれはきれいでした。

 

ナイアガラ市は滝だけではなく音楽活動も盛んでした。

教会や銀行のロビーを開放して無料の音楽会を始終

開いていました。

初めてフォーレのレクイエムやモーツアルトのレクイエムの

ソロをさせてもらったのも此のナイアガラでした。

特に音楽ファンでない一般の人達が銀行や教会のコンサートを

楽しみに集まってくる、そう言う場が沢山ある、今思うと誰が

企画して誰が私達に支払いをして下さったのか解りませんが、

音楽愛好家の幅,層の厚さが日本とは違ったのだなあと

50年も前の事なのに感心しており、私達ももっと音楽を

広めるためにお金や時間を使わなくては、と少し淋しい

思いをしています。


No.43 現代音楽への一歩

バッファロー大学には Music Today と言うプログラムがあり

有名なヴァイオリニスト アレクサンダー シュナイダー氏と

指揮者のルカス フォス氏が中心となって現代音楽の

演奏会を定期的に行って居ました。

その一環として私は初めてジョン ケージを知りました。

「何これ?」と言うのが第一印象でした。

怒って出て行くお客さまも居ました。半裸の男がひげそり

クリームをシュワシュワ出しながらネクタイを噛み、音楽と

言えないような音をピアノが鳴らすのです。

1963、64年頃がアメリカでは実験的音楽が一番流行し、

その流れに乗らないものは置き去りにされるような空気が

ただよっていました。

私も此の際もっと知らないといけないと思って仲間に入れて

もらいました。私に渡されたのはジョン コルレリアーノの

「打楽器とソプラノ」という譜面でした。

そこには音符がほとんど書いて無くてコンパスや三角定規で

描かれた図面ばかりで途中に「叫ぶ」「手をたたく」「笑う」などと

指示があるだけなのです。

もう、ひっくり返りそうにびっくりしました。全体的に高音で

打楽器群に負けないように歌わねばならず、音程を取るだけでも

一生のうちで一番勉強したと思う位勉強しました。

本番にはポップな超ミニドレスで来るようにとの指図もあり、

靴の中で足の指10本をフルに動かして変拍子を数えました。

今でもカセットテープが残っていますがよくやったと思います。

 

この時代をピークとして実験音楽はやや下火となり、やはり音楽は

美しくて人を癒すものでなければと言う風潮に落ち着いてきました。

でもよい事もありました。あのニューヨークタイムスが

“Fujii、smashing soprano” (猛烈なソプラノ)

という評を載せてくれたのです。

それよりもそれをきっかけに現代音楽の面白さも解り、苦手な

増4度や減5度も平気でに取れるようになって今日まで譜読み

には苦労しないようになっています。与えられたチャンスには

何でも挑む事を学んだのもバッファロー時代でした。

今ではスタンダードになっているヒンデミットのオペラ

“Hin und Zuruck”やストラヴィンスキー、プーランク、メノッティの

オペラをやらせてもらったのも今思えば幸せな事でした。


No.42 バッファロー生活の始まり

ニューヨーク州バッファローに引っ越して又私の音楽人生で

とても大切な二人の先生にめぐり逢いました。

イタリア語しか話せないオペラの指揮者 ヴィットリア ジャラターナ

さんと、教会音楽の第一人者スクワイア ハスキンさんです。

私もNY州立大学音楽学部の講師の仕事を得て教え始めました。

 

その話の前に、先ずアメリカ人達が新しい土地に来た新人社員、

英語も下手な日本人夫婦をウエルカムしてくれたやり方に

心打たれました。

研究所長のセクレタリーという中年の女性が丸一日掛けて

私達のアパート探しにつきあってくれ、病院、スーパー、銀行、

美容院まで車で案内してくれました。

研究所長さんからはオペラ観劇の招待券2枚が送られ、

デュポンのレディスクラブ(社員の奥さん達)から「ウエルカム 

ワゴン」という乳母車のようなバスケットが届いて生活の必需品

一揃えとホームメードのケーキが来たのには感激でした。

 

ジャラターナ先生とは大学に教えに行っている時に出会いました。

イタリアから呼ばれて来たばかりと言う事でしたので私にも

オペラを教えてくださいと頼み、「椿姫」を序曲から最後まで

やろうとおっしゃってびっくり。

御自分でピアノを弾きながら顎で指揮をし、他の配役のパートも

全部歌って下さり、演技まで教えてくださいました。

これが本場のオペラの学び方か、と新鮮で情熱的な教え方に

多くの事を学びました。お蔭でその後いくつかのオペラ団で

主役のヴィオレッタを自信を持って歌う事ができました。

ある日のレッスンの途中でケネディ大統領暗殺のニュースが

流れた時、先生はさめざめと泣き、「レッスンはここまでにして

一緒に教会に行ってお祈りしよう」とおっしゃったのにも胸を

打たれました。

 

ハスキン先生も同じ州立大学でオルガンの教授をしながら、

バッファロ フイルハーモニーのオルガンとチェンバロ奏者であり、

ファースト バプティスト チャーチの音楽主事でもありました。

そこで毎週知らない曲を与えられソロを歌う事でお金をいただき

ながら教会音楽のレパートリーを広げられた事はとても得難い

経験でした。

教会の中の音楽主事の部屋といったら大会社の社長さんの

部屋のように立派で本棚は図書館のように楽譜や文献で

いっぱいでした。

日本の教会音楽家達と比べてしまってはいけないのですが、

キリスト教国では音楽家は大事にされているのだなあ、

国民全体が音楽を愛しているのだなあと痛感したものです。

 

イースターやクリスマスにはフィルハーモニーのメンバー達が来て

ファンファーレを演奏して下さったり、年に何回かのコンサートでは

今まで知らなかったカンタータやオラトリオを歌わせていただきました。

例えばスカルラッティ、ドボルザーク、サンサーンス、プーランク、

オルフのカルミナブラーナ等を全曲演奏出来たのは今思っても

幸せな事でした。

日曜日の礼拝でもこんな歌があったのかと目からうろこでした。

「勤労感謝の日の歌」とか「キリストの最後の晩餐の歌」とか。

 

ハスキン先生のお蔭で国連の日にルーカス フォスの指揮で

「第九」を歌わせていただいた時、ソリストが全部違う人種、

黒人や日本人の私を含めて移民や外国人だったのは話題と

なってTVで放映されました。

バッファローでの生活はこのように始まりました。

でも雪がすごくてチビの私は悲鳴を上げていました。 


No.41 アメリカの子育てに感心

アメリカで結婚と言う事は親にも頼れない、でも全部2人で

決められる、というメリットとデメリットがありました。
銀行口座を作る事から始まり、アメリカではアキラ&タエコ
のように二人の名前で口座が作れるのがわかりました。
帰国後日本では作れない事が解り、夫婦という単位の
扱い方も違うのだなーと思ったものです。

 

先ず救世軍のバザーで古い家具を安くで購入、週末も
お金がかからないボストン公園やチャールス リヴァーの
川辺の散策で過ごしました。

 

朗は大学での研究者を止め、大手の化学会社デュポンの
研究者になりました。急に給料が2倍以上になってびっくり
したものです。でも早速転勤でニューヨーク州バッファロー
勤めとなりました。アパートが見つかるまで泊っていなさいと
言うご親切な牧師さんのお宅で見たアメリカ人の子育ては
驚きで新鮮でした。

 

2歳のスティーヴに毎朝シャツとパンツの色を選ばせる。

 

朝起きたら枕をぽんぽん叩いて形をととのえさせる。

 

顔を洗った後「耳の後ろも洗った?」と聞いていた。

面白いと思った。

夕食のスパゲッティを食べない時「3本でよいから食べなさい、
いやなら自分の部屋に行きなさい」、坊やがべそをかきながら
四つんばいで階段を上ってゆくのを見てテーブルについていた
私の方がはらはら。でも誰も助けてあげない。

寝る前に「明日のブレックファストはフレンチトーストよ、とか
パンケーキよ」と楽しみを与える。

「今夜はシューベルト、モーツァルト、ブラームス、誰の子守唄に
する?」と子供に選ばせてレコードを掛け、キスして暗い部屋に
一人置いて親は添い寝などしない。

 


可愛がる時は沢山キスやハグをするが決して甘えさせない、
独立心を育て、自分の服の色や好きな音楽を選べるようにする、
与えられた食物は感謝して必ず食べる。
日本の親は「愛する事」を「甘えさせわがままを通してしまう事」と
勘違いしていないかしらと思い、大変勉強になりました。

 


No.40 声楽家として成功する法

アメリカで読んだ記事で面白い、なるほど、
と思った物をご紹介します。
「次の10の条件、大切な順、の中で1つも持って
いない事が解った人は、即時声楽を諦めなさい」
と書き加えてありました。
それほど大変なのだと言う事でしょう。

1.お金がある事

2.超丈夫な身体を持っている事

3.貞操観念が低い事(演出家や指揮者と寝る事?)

4.暗記力がよい事

5.人を押しのけても前へ出る性格である事

6.美人又は美男子である事

7.アンテナを張っていて運を逃さない事

8.チャーミングな性格である事

9.一生懸命勉強、努力する事

10.音楽才能がある事(読譜力、表現力、ピアノが弾ける)

ちなみに私は最後の3つだけ持っていて何とか
今日まで続いています。


No.39 伴侶の選び方

私なりに考えた伴侶の選び方です。
少女の頃の結婚の夢とはやや違った
結婚になりましたが皆に祝福され、
誰が見ても恥ずかしくない結婚をしたと
思って居ます。
自分で選んだ人ですから責任を持って
成功させたいと思っていました。
勿論好きであることは大切、でも映画に
ある様な甘い生活やセックス、子供を作る
ためだけでない結婚もありだと思った私の
生意気な条件を公表させていただきます。


物事の受取り方や決定の仕方が同じであること。
いわゆる感性がおなじであることが一番大事。

はっきりした目的を持って仕事に励む人。


真面目で信頼できるひと。


さっぱりして明るい人。


短所も含めて尊敬できる人。


以上を大切にしました。

 

おしゃれで、社交上手で私の事を
「貴女は東洋の宝石だ」なんて言ってくれた
ボーイフレンドもいましたが、おかしくて
私は吹きだして笑ってしまいましたっけ。
それから怒りっぽくてぐじぐじして居て
レストランでメニューを決めるのにも
時間がかかり、何にでもこだわる人とも
つきあってすぐいやになりました。

私は化学の事は解らないし、彼も音楽は
好きでもそんなに深くは解らない同志でしたが
お互いを理解し合ってたまには我慢し合って
過ごせた37年は私を人間として成長させて
くれたと思って居ます。
結婚してよかったと思って居ます。


No.38 続 アメリカで学生結婚

お父様役のポルトノイさんの方が緊張して
「アキラはどうした?来たらすぐ此の香水を
振りかけようと思っているのに、、」
とうろうろしていらっしゃる所へ朗到着。
自分でウェディング ケーキを取りに行き
渋滞に巻き込まれたそうでした。
結婚式はお母様役のポルトノイ夫人が案内人に
腕を取られて中央から入場するとそれを合図に
ワグナーのマーチが始まるのです。
お父様役のポルトノイさんも私も音楽家です
から
私達二人の足取りのリズムは完ぺきだったと
思います。
私は誓約文がうまく覚えられていなくて少し
モニャモニャ言ってしまいましたが、
お嫁さんをやるだけでなく独唱者もやりました
ので(雇うお金を倹約)結構忙しかったのを
覚えています。
花束のかわりに銀色の扇子を広げた上に一杯の
バラの花をあしらったものを持って歩きました。
式の後はその花束を後ろ向きで投げそれを
拾った人はラッキーと言う事ですが私の花束を
受け取った女性は病気のかたでした。
よかったなあと思っていたのですが間もなく
亡くなってしまったと聞きました。
あの時、あの瞬間だけでも皆の拍手の中で幸せを
感じてくださったのだったら花束はよい役目を
してくれたのかもしれません。
ケーキは夫婦が先ず食べさせあってから私達で
切って皆さんに食べていただきました。
残りはハネムーンに持って行きホテルの食堂に
居合わせた方たちにも食べていただきました。
拍手が湧き、嬉しかったこと!
一番上の段だけはそのまま冷凍して1年目の
記念日に食べるのです。
その上のお人形飾りは今もここにあり、毎年
4月29日にはテーブルの上にだしています。
お米の雨を受け、空き缶を縛った物を車の後ろで
カンカラ鳴らしながらハネムーンに向かいました。
何と私は数日後にある本番のスコアを持って、
それも「フィガロの結婚」のスコアでした。

アメリカで結婚式を経験する事が出来たなんて
今考えると本当に素晴らしい事でした。
最近TVで「花嫁の父」と言う映画を見ましたが
私が経験した全ての事がそっくりそのまま
描かれていて懐かしくて涙が出ました。


No.37 アメリカで学生結婚

1961年、30歳になるちょっと前の4月29日、
私達は結婚しました。当時の天皇のお誕生日、
おめでたい日を選びました。
勿論両家の親の出席などは出来ませんでしたが
私の妹が留学していたので家族として立ち会って
もらえました。
両親の希望もあって正式な招待状の印刷(女性
側の親が出す)に始まり、指輪の用意は
ベルグマン先生の奥様が塚本を連れて宝石屋さん
まで行って下さいました。
母から純白の振袖と銀の帯が届き、ヴェールは
自分で花を飾って作りました。
結婚の祝い品は銀製品と決まっているらしく
招待状を受け取った方達から銀の燭台、お皿、
パンチボウル、ピッチャー(水差し)等が届けられ
習慣に従ってディスプレイして皆さんに見て
いただきました。
式は私がソリストをしていたボストンのファースト
バプティスト チャーチと決まりました。
先輩方の指示で結婚式にはSomething old,
Something blue,Something used (
昔の物、青い物、
使い古しの物)を身につけないといけないそうで
色々用意して下さいました。足首に青いリボンを
縛ったのを覚えています。

 

私の代理お父様にはボストン大の教授でボストン
交響楽団のコントラバス奏者のポルトノイさん
(ユダヤ人)、奏楽はイタリア人(カトリック)
ブライドメイドにはルームメートのエジプト人
モナ(イスラム教)、カメラマンはインド人、
花婿の付き添いは塚本の友人(仏教と神道)
多人種多宗教の集まりとなり、牧師先生の所に
2人で恐る恐るそれでもよいかとうかがいに
ゆきました。牧師さんのお答は「まだ足りない
宗教があるのではないか?」と言う物で、広い心に
感謝しました。
牧師さんのアドヴァイスで午後5時前の結婚式には
タキシードを着てはいけない、アフタヌーン
フォーマルを貸衣装やさんで借りて着て下さいと
言う事でした。
アフタヌーンフォーマルとは縞ズボンに縞長ネクタイ、
グレイのチョッキでした。
色々あってヤット結婚式当日は豪雨でしたが
いよいよ時間になってもお婿さんが来ないのです!
まさか?やめたの?


No.36 結婚と勉学の両立

30歳までに結婚したいな、と思っていたので

29歳になった私は真剣に考えて両親に結婚したい

のだがと伝えました。

勉学と両立させるのならアメリカで結婚すべきだと

決断したのはアメリカの男性達がスーパーの買い物、

洗濯、育児と実に良く協力しているのを見たからです。

ボストン大学にも夫婦寮があり昼休みには寮に帰って

夫婦で乳母車を押して居る人を見てほほえましく

思っていました。

父は青い目の外国人はいけない、音楽を生業とする男も

いけないと言って居ましたので、塚本と言う日本人は

化学者で真面目で、と父母が反対できないような

好条件を上手に並べて手紙を出しました。

航空便で返事が来るまでに2週間かかりましたが、

何と母が私の修士号の式典に出席するという表向きな

目的と彼をチェックしに日本から来るというのです。

あとで聞きましたが人づてに塚本家の事を調べてから

結納品を持ってご挨拶にいってくれたりしたとか。

当時の日本はまだまだお見合い結婚が普通でしたので

学生結婚?アメリカで?と色々言った人もいたようです。

 

母がボストンのローガン空港に着いた日、塚本は背広を

着て(1着しか持っていませんでした)空港まで迎えに

行き母の荷物を持ったり運転したりのサービスをする為に

研究室を抜け出して来てくれました。

母は初対面の瞬間から塚本を気に入ってしまったようでした。

母は慶応義塾の英語の教師をして居ましたので若い男性を

扱うのが上手でした。荷物を私のアパートに運んだあと、

塚本が「では失礼して研究室にもどりますので」と言うと

母が「あらー、さぼっちゃいなさいよ!」と言ったのです。

彼より私がびっくりしてそんなことを言う母を

たしなめたのを覚えています。


No.35 ~そして イースター

キリスト教国で一番大切なのはクリスマスより

イースターでしょう。

一度死んだキリストが復活して現れ、怖くて

逃げた人もいる、と弟子たちによって聖書にも

書かれています。

キリスト教徒はこのお話を信じています。

イースターは毎年3月21日以後の満月の後の

日曜日なので毎年変わるのです。

今年は4月17日でした。

 

アメリカで忘れられないのはこの日から御婦人達の

帽子が華やかな夏帽子になる事です。

たとえ外が吹雪でもです。

バッファロー市にも何年か住んで居ましたが

イースターは大抵まだ冬景色でした。

私は教会の聖歌隊で2階のバルコニー席にいました

ので、もう、それは綺麗でお花畑のようでした。

帽子の上にヒヨコが乗っていたり、ガラスのイアリングに

本物の金魚が泳いでいたり。

イースターは春の訪れでもあり、再生、誕生、の祝日

でもあるので特に雪国の人達にとっては嬉しい

待ち焦がれた日なのです。

 

この日には教会からヒアシンスの鉢植えをもらって帰り、

イースター サパーと言って新しいアスパラガスと

厚いハムステーキを食べるのです。

今でもイースターの日には一人でアスパラガスと

ハムステーキを食べています!

 

新しい命の誕生を代表する卵はゆでて色染され、

庭のどこかに隠して子供達が探します。

ウサギは多産と言う事から等身大のチョコレートの

形になって店を飾ります。そしてイースターパレード。

 

イースターの音楽が沢山ある事も学びました

A.Hovanessのイースターカンタータ“Triptychi”とか

R.Vaughan-Williamsの“Five Mystical Songs- Easter”

とか。

 

病の人も恵まれない人もイースターを迎えると元気を

もらえる、そんな日ですが、実は私も90歳で今年も

イースターを迎える事が出来、生きている事に改めて

感謝をしました。


No.34 続アメリカのクリスマス 

日本の御正月のように家族が集まる時、みんな帰って

しまうので大学の練習室も閉まってその辺りがシーンと

して居ました。

1$が¥360の時代ですから簡単には帰れず留学生に

とっては一番淋しい季節だったかもしれません。

母から船便で送られてきた小包の梅干しやお茶、味噌等の

日本の匂いを嗅いで涙っぽくなったのを覚えています。

あとから聞いたのですが私が母に送った暖かい手袋には

バターやチーズの匂いがしみ込んでいたそうですから

食べ物と体臭の関係って面白いなと思いました。

アメリカは広いので学生は格安の大型のグレイハウンドバスで

帰省しますが座席が満席で乗れなかった唯一人の若者の為に

バス会社が1台のバスをクリスマスプレゼントとして出して

くれた事がニュースになりとても心を打たれました。

 

「一人でクリスマスを迎えるなんて絶対いけないよ」と

学長先生、下宿の小父さん、そして郵便やの小父さんから

お招きいただきました。

郵便屋さんはバシッと背広を着てお迎えに来てくれ、ちゃんと

車のドアを開けレディとして扱ってくれました。

「家は貧乏だから魚とポテトしかないけど」と言っていた通り

小さいお家で御魚とポテトだけでした。

でも奥さんと二人でローソクをともしてお祈りをして

いただいたあのクリスマスは忘れられません。

日本人が家は狭いからとか御馳走出来ないからという理由で

留学生を招こうとしないのと違うのは何でしょう。

と言う私も留学生をお正月などに呼んであげた事がないのを

恥ずかしく思います。与える気持ち、心があっても簡単に

他人を呼べないのは何故でしょう。

 

道路の交通整理のお巡りさんの足元に“メリークリスマス”

と言ってプレゼントを置いて行く人、お巡りさんも

“メリークリスマス”と叫んでいましたし、知らない人が

“メリークリスマス”と声を掛けてくれ、私も思わず

“メリークリスマス”と言っていました。

コモンズと言う大きな公園にはイエス生誕の馬小屋も

作られていて私も雪を踏みながら見に行ったものでした。

 

私が“Merry Christmas”と言うとRがLになっていたようで

可愛いねと真似されましたっけ。今はちゃんと発音できます!

本当のクリスマスはサンタクロースや買い物やケーキではない、

与える心でした。


No.33 アメリカのクリスマス 1

夏に日本から船便で送った大きなトランクは12月まで

来ませんでした。

ボストンの冬は寒く、宣教師やお友達がコートを貸して

下さいましたがどれもだぶだぶで今なら流行かもしれま

せんが手も足首も隠れるくらい、でも暖かかったです。

 

クリスマスがやって来ました。

日本のクリスマスとの大きな違いは「与える心」でした。

日本での商店街のジングルベル、サンタクロース、年に

1回の白い大きなケーキ、プレゼント、とは違い音楽、

家族、感謝、と共にイエス様の誕生を祝い、ちょっと

神聖な気分になる日、日本の元旦の朝に似た雰囲気かも

しれません。

 

1カ月前からローソクを毎週1本づつ増やし心の準備が

始まります。

家族でその家に合ったサイズのツリーを選んで買って来ます。

カーテンは夜も開け放し、外を通る人を楽しませようと

窓際にツリーを置き、家の女主人の趣味の見せ所になります。

カードばかり、リボンばかり、飾り玉の色は全て1色にする

など、個性的で上品でした。

親たちはクリスマス リストを書いてあの子にはフルートを、

とかあの子には保護ネコを等本気で相手が喜ぶ物を考えます。

FMラジオは1カ月間クリスマス音楽以外は流さないのです。

スカルラッティ、サンサーンス、シャルパンティエ、

ヴォーンウイリアムス等がクリスマスオラトリオや

カンタータを書いていたのも初めて知りましたし、楽しくて

美しいクリスマスのポップスが毎日流れてくるのを聞いて、

そうだ、私には日本に帰ったらクリスマス音楽を紹介する

義務がある、と決心したような気がして居ます。

その後帰国して毎年続けた30回に及ぶクリスマスコンサート、

でもまだまだ紹介しきれていません。


No.32 アメリカの幸福時代

やっと少し発音が良くなってきたかと思っていたのに英語が

下手な事が得点になって中国人役に抜擢されたのは何とも

皮肉でした。LとR、BとVがごちゃ混ぜになる私の英語が

チャーミングだと言うのですから仕方がありません。

ミュージカル“Flower Drum Song”を通して音楽を楽しむ

ことに加えて、中国の風習等も色々勉強になりました。

劇中の結婚式の場面では女性は皆黒地に刺繍のロングの

チャイニース ドレスでしたが、日本の黒留袖も中国から

来た伝統かもしれません。

父親の権限は日本以上、家族は大勢で、私に色々教えて

くれたウォンさん一家も飛行機一機に一族全部が乗って

移民してきたそうでした。ウォンさんは女性なら(黄)、

男性なら(王)と言う漢字になるそうで面白いと思いました。

 

音楽マーケットで日本と違うと思ったのはマネージャーの

仕事です。新聞に必ず宣伝し批評も載せてくれ、本番には

色々の所からマネージャーが来て、終演後に楽屋に来て

仕事の契約をしてくれる事です。

何時何処で何の役を何日やってほしい、ギャラはxx$で、

と自由で新鮮な交渉が行われるのです。

つまりマネージャーと言うのは単なる事務処理係りではなく

全てにおいて責任を持っているすごい人なのです。

次の私の仕事は「王様と私」のタプティム役に決まりましたが

もし実力だけではなく、この顔と下手な英語が売り物だと

したらこれは差別だ、等と少し僻んだりしました。

マネージャは「いいのを見つけた」と思ったそうですが。

 

その頃、1960年代はアメリカの最も花開いた良い時代

だったと思います。その後はベトナム戦争、人種問題、

大統領暗殺、ロッキード事件等の問題が噴出しましたから。

その頃はもしかしたら人間達が皆前を向いて今より幸せ

だったのかもしれないと思うこの頃です。


No.31 ミュージカル?

前回のサイズの続きですが、サイズ44のジーンズなんて
私が4人入る位の太さで、小錦関位の大きな女性もいます
のでニーズに合わせてサイズを揃えていたのにはさすが、
と感心したものです。
日本に帰った時アメリカの習慣で
「これ、サイズは何ですか?」とデパートの店員さんに
聞いた時「普通、でございます」と言われて私のほうが
あわてたのも覚えています。

「蝶々夫人」の評が新聞に出たすぐ後、ある劇団から
ミュージカルに出ないかと声がかかりました。
実を言うとミュージカルと言う物を見たこともなかったので
私とは遠いジャンルですので、とお断りしました。
すると、これはアメリカに密入国してきた中国人女性の話で、
東洋人の顔と英語が上手でない事が条件なのでぜひ、
と言われて不本意ながらやることになってしまいました。
“Flower Drum Song”と言うロジャース作曲で
ナンシー梅木さんがアカデミー賞をとった作品でした。
オペラと違って台詞があり、覚えるのは大変でしたが
初めてのミュージカルにすっかり取り付かれてしまいました。
コーラスには当時60代、70代と思われる高齢者も居て、
その人達が飛んだり跳ねたり元気で明るくてびっくりしました。
その頃の日本では高齢者はじっと縁側かこたつで丸くなって
いるものだと思っていましたから。
芝居から歌へ、踊りながら台詞へ、そして又歌へ、とスムースに
流れるミュージカルの楽しさ、これは日本でもやってほしい、
それもクラッシックの歌手の方達に、と思いました。
ミュージカルなんて、と少々バカにしていた私に新しい世界が
開きました。
音楽は難しい技術を習得するだけでなくお客様を喜ばせ、
自分も楽しむものなのだと知った大切な瞬間でした。


No.30 竹やぶ

本番前の一週間を本番のステージで行えた事は大きな
安心感と結び付きました。
日本ではなかなか経験できない事です。
帰国してから経費の関係で当日GP(総練習)と本番が
あり、本番は疲れ切って集中力に欠けた体験をした事が
あります。
おまけにチケットノルマがあって、文化の貧しさを感じ
ました。
ちなみにアメリカにいた長い間にチケットを売った経験は
一度もありません。それはチケットコミティの人達が宣伝
してさばいてくれていました。

練習中のコールドウェル女史のスタミナは恐ろしい位でした。
満足するまでは夜中まで練習、疲れると座席の間の通路に
ごろりと横になって10分位グーグー寝てしまうのです。
舞台装置は障子のある日本家屋、石灯籠があって、竹やぶ
までありました。竹はロスから取り寄せたそうでした。
アメリカは乾燥地が多いので竹は育たないそうです。
ところが本番の最中に照明に当たって乾いて来た竹が
バチーンと大きな音を立てて割れ始めたのです。
観客もオーケストラもテロかと思って立ち上がる人も
いました。

本番前にピンカートンを歌ったパッファーさんはコロンを
いっぱいつけて、歯磨きを念入りにし、凛とした格好で
私の楽屋に花束を届けに来ました。
コーチの方々全員が赤いバラを1輪づつ届けてくださった
のにも感激しました。日本にはない習慣でしたから。
衣裳係と言う人達は役に立たないので着つけは一人で
奮闘しました。コーラスの芸者達はウエストを細い紐で
ギュッと締め、左前に着物を着ていましたから。
花の2重唱では座布団に座って生け花をしながら歌う事に
なっていました。
当日、立派な松の枝が来てケン山(自前)にささらなくて
ひどい生け花になってしまいました。
途中でふと見たらスズキ役のアルトの方の片足に脱げ切れ
なかった草履が目に入りあわてました。石の上でスッと
脱いだり履いたり、これは日本人の特技だと思います。

1$360円、自由にアメリカへ来られない時代でしたから
勿論両親も来られません、アンコールに応えながらそれが
一番寂しかったかもしれません。でも大学院生の私のオペラ
デビューで、その後各地からお声がかかり「蝶々さん」は
200回位はやったと思います。イタリア語や英語で。
芸大ではオペラコースを取っていましたがせいぜいアリアと
重唱、1シーンをやれた位でしたから、本当にラッキー
だったと思います。
母に送ってもらった蝶々の振袖は汗まみれとなり、洗濯機に
入れそうになったのですが、初めてクリーニングやさんに
頼みました。
1週間後、背の高い小父さんがべローンとアイロンで
伸ばした振り袖をハンガーにぶら下げて持って来て言いました。
This is too long for you
と。
「オハショリするからいいのよ」と言おうとしたのですが
うまい単語が見つからず、「着物はワンサイズなのよ」と
言うと小父さんがもっとびっくりしていました。
ちなみに当時私の服はサイズ7で、サイズ45位まであり、
太めの人は4、6、8、と偶数でやはり44位までありました。


No.29 蝶々夫人

ダウンタウンにボストン大学のシアターがあり、来年の出し物は

タエコを主役にしてオペラ「蝶々夫人」を公演しようという話が

上がっていたそうで、全く知らないで塚本朗とデートをして居た

私はその話を周りから聞いてたまげました。

だってアリア「ある晴れた日」しかやったことがなかったのです。 

勿論日本人ですから蝶々さんの役ができるなんて夢のまた夢でした。

でもスコアも持っていなかったしピアノはないしレコードもないし。

それから毎日コーチの先生方が入れ替わり立ち替わりピアノを

弾きながらピンカートン、シャープレス(領事)、スズキ(女中)の役まで

変な裏声で歌って下さり、オーケストラ合わせになった時、

何処からでも入れるようにしん坊強く教えて下さったのには頭が

下がりました。

私が“もういいです”、と言っても“もう1回やろう”と時間オーヴァーでも

平気で付き合って下さり、これは体力勝負だなあと思いました。

当時日本にはすばらしい伴奏者は居られても同時に全ての役を

歌えるコーチと言う職業はありませんでした。

コーチたちがオペラ科のピアノ専攻卒業と知って驚き、

そういうコースがあるのをうらやましくしく思ったものです。

演出、指揮は以前私をロシア貴族のお家に連れて行ってくださった

コールドウェル女史、副指揮が大好きなベルグマン先生と聞いて

嬉しくなりました。ピンカートンは講師のパッファー先生でした。

 

演技練習に入ると、貴女は日本人なのだから遠慮なく日本の風習に

ついて助言をしなさいと言われましたがいやはや大変で笑ってしまい

ました。縁側の石があるのにバラバラに草履を飛ばすので向きを

変えて直すのは私、両袖に手を突っ込んでお辞儀をするのは

中国流でどうかと思う、、土の上にペタンと座るなんて着物が汚れます、

結婚式のサインは日本語なら上から下に向けて字を書きます、等など。

 

衣装屋さんは「酒屋」とかいた前掛けを持ってきたり、着物と称する

ものはウエストがくびれていて裾広がり、蝶々さんの足袋が赤色の

べっちんだったり。

ボストンの有名な小道具屋さんヤツハシが持ってきた仏壇は

本箱みたいだし、お座敷のヒバチが七輪、という具合でした。

本番までに何とか本当の日本の伝統を伝えたいと苦労しました。

当時まだ珍しかった「ジャパン」を見せる演出だったのでしょうか、

2幕の花の2重唱は生け花シーン、領事にお茶を出すのは茶道で、

実は茶道は習ってこなかったので青くなりました。

 

塚本朗は研究室のアメリカ人達から婚約者が歌う本番には

赤いバラの花束を持ってステージに走って渡すべきだと言われて

もっと真っ青になったそうです。


No.28 ベルリオーズ

塚本朗と私はそれから時々デートをするようになったのですが、

あれがデートと言えるかしらと思いだすと笑ってしまいます。

ピアノが無かった私は毎晩大学の練習室を見回る小使いさんに

“Good Night”と言って21時に追い出されてから本部の化学研究室で

彼が液体窒素とか言う物をブクブク注ぎ込んでは何かを計っている傍で

歌の歌詞、ドイツ語、イタリー語、そしてアメリカ人にはまったく必要のない

英語、を辞書でしらべる、22時半頃に彼の実験が終わると2人で近くの

ピーターパンというカフェでパフェやアイスクリームを食べる、

それだけでした。あちらではカフェは24時間空いていましたので。

 

彼はどちらかというと無口なほうだったので私がもっぱら質問をして

居たような気がします。

彼の事をもっと知りたかったし、というより知る必要もあったので。

「日本のお家はどこ?」から始まって「ご両親は?」「ご兄弟は?」

「化学って解らないけどどういう分野の研究をなさってるの?」

「有機です」「はァ??」でストップ。

思い切って大事な質問をしました。

「音楽お好きですか?」 「はい」

「たとえば好きな作曲家ってある?」

「ベルリオーズです。幻想交響曲はいいですね」

「、、、、ベルリオーズ?」私が考えもしない答で戸惑いました。

頭でっかちの学者からはきっとバッハとかモーツァルト等の答えが

返ってくるだろうとおもっていたのでした。

あの狂人的な幻想交響曲が好きな人って普通ではないのでは

ないかと思いました。

後で解ったのですが当時彼はコロンビアレコードクラブと言うのに

入っていて毎月新しいLPが送られてくるシステムになって居り、

ちょうどその月に幻想交響曲が着いた所で、それしか覚えていなかった

のだそうです。

なーんだ、びっくりさせないでよ、と一安心しました。

音楽を専門に勉強して居てもベルリオーズが好きという人はよほどの

お宅か変わった人だという印象でしたし当時私は1曲もベルリオーズの

歌を勉強した事もなかったので。

 

今と違ってメールどころか下宿暮らしの二人でしたから大家さんに

借りないと電話も出来ない時代でした。もっぱらせっせと逢いました。

今思うとそういう時代ってロマンティックでよかったなあと思います。


No.27 Are You Japanese?

大学食堂の隅っこには楕円形のテーブルがあって、何となくそこには

アジア系の学生が集まってランチを食べるようになっていました。

インド、パキスタン、中国、香港、フィリピン人などで、皆おかしな英語で

結構楽しく話して居ました。うまく説明できませんが何となく劣等感無しに

居られるほっとする場所になっていました。

日本にいやなイメージを持っているハズの人達も個人的には皆良い人達で

何故国対国になると戦争にまでなってしまうのか改めて考えさせられました。

片隅には自販機が何台かあって、初めは皆がオニオンスープ、コーヒー、

ピーナッツバターサンドウイッチ等を取り出すのを手品を見るように眺めた

でしたが恐る恐るお金を入れてガチャンと欲しい物が出て来た時は

感激でした。日本にはまだそんな物はありませんでしたから。

 

大学側が留学生たちが孤独にならないようにとInternational Student Day

言うパーティーを開いてくれました。その中には後に結婚する事になる

ドクター塚本も居ましたが私は彼を偉い韓国から来た研究者だと思って

いましたし、彼は私を中国から来た学生だと思っていたそうです。

その頃日本からの女子留学生なんて居ませんでしたから、逢えば“Hello”と

英語でしゃべって居ました。ある友人が言いました。

“彼日本人だよ” “No” “じゃ、行って聞いてみたら?”、

そこで私は彼の傍へ行って“Excuse me, Are you Japanese?”と聞きましたら

“Yes,I am Japanese”という答えが返ってきたのです。

後は「どこから来たの?何を勉強しているの?そろばんやった?小学校では

咲いた、咲いた、桜が咲いたって習った?」等等立て板に水を流すように

久しぶりの日本語をしゃべりました。

咲いた、咲いたを習ったと言う事は昭和生まれだろうと思った通り彼は私の

1年先輩でした。その後彼が化学者で大阪から私より3年早くインディアナで

博士号をとってから化学の助手としてボストン大に来て居た事、独身だと

言う事が解って来ました。真面目過ぎる位真面目で、ものの考え方が同じ

だと言う事は一番嬉しかった事です。

早速父母にエアメールを書きました。「ボーイフレンドが出来ました。

日本人です。パパと同じように白衣を着ている人です」と。


No.26 合衆国は多民族国

ベルグマン先生の下でコーチングをして下さったのはパリネロ先生でした。

御両親はイタリアからの移民、仲良し大家族のクリスマスディナーに私を

呼んでくださいましたがお母様はイタリア語しか話せない方でした。

“昨夜から七面鳥をとろ火でオーブンで夜通し焼いていたのよ”と

大きな七面鳥をわいわい言って皆でいただきました。

七面鳥には必ずクランベリーソースを一緒にいただく、と言う事も学びました。

私を大きな胸でハグして下さったイタリアンママでした。

 

ボストン大学の超教派の礼拝堂はコモンウェルス アヴェニューにあり

キング牧師の後輩だったDr.サーマンと言う黒人の牧師さんがときには

イスラム教、時には仏教の教えも説かれていました。

そのサーマン先生のお誕生日をお祝いする会で私に何か歌っても

らえないだろうか、と言うお話が来ました。

勿論喜んで、とお返事をした所、お礼は$5しか払えないけれど

それでもよいかと再度のお電話がありました。

当日、“本当に有難う、少しだけれど”と$5を下さったのもびっくりでした。

先生の為に歌うのはむしろ名誉に思っていた私に“貴女は音楽の専門家、

お礼をするのは当たり前”とおっしゃったのです。

偉い先生でも仕事として頼む場合は報酬を払う、という考え方、

ボランティアであろうと、先生と言う立場であろうと割り切って支払う、

これもアメリカで学んだ事でした。日本なら先生のためなら何でも何時でも、

という甘えは通用しないと言う事でした。お金の事について契約する事は

決してハシタナイことではないのです。私も今、生徒さんが何か買ってきて

くれたり手伝ってくれたときは必ず払うようにしています。

 

教会の聖歌隊の仕事も続いていました。

ソリストは4人、東洋人の私がソプラノ、アルトは白人女性、テノールとバスの

ソリストは黒人の方でした。

特にバスの男性は墨の様に真っ黒な人で名前はMr.ホワイトさんでした。

手の裏だけが黄色で、私のソロの後“よかったよー”とハグしてくれるのですが、

白人にハグされる時とはちょっと違う動物的な匂いと言うか何というか、

何時も小さくなっていた私がいました。

今思っても本当に恥ずかしい事だったと思います。

彼の低いバスの声は天下一品でした。

 

私の下宿は大学から遠くないバズウエル通りにありました。

そこにはMr.ダイアモンドと言う黒人男性がいました。

先祖が奴隷だった時代は名字が無かったそうで自分で名字を選ぶ事が

出来たそうです。

ホワイトさんとか、ダイアモンドさんとか何ともおかしいと言うか悲しい過去を

少しでもカヴァーしたかった彼らの気持ちが表れているように感じました。

そのダイアモンドさんをある日家主のスタビーレさんが“Get out!”と

追い出してしまったのです。

どうしたの?と聞くと“He is a communist!”と言うのです。

当時アメリカでは何かちょっと悪い事があるとあれはコミュニスト(共産主義者)

だと理由も意味も解らず毛嫌いする傾向にありました。

スタビーレ夫妻は最高によい人なのですが単純なひとで、共産主義の人は

悪人、みたいに信じ込んでいたようです。

私の事はとてもかわいがってくれてクリスマスには町のライトアップを見に

連れて行ってくれたり、ポルトガル人のおかみさんの作るシチューを

御馳走してくれたりしました。

この下宿にはベトナム人のカジャヤさんと言う女性もいましたが朝、昼、晩と

すごいニンニク料理をするのでニンニク好きの私もちょっと参ってしまいました。

家主のスタビーレさんはアポロ打ち上げの時あんまり興奮しすぎて脳梗塞を

起こしてしまいました。

 

ある時からとても美しい若者が1階全部を借りた事がありました。

大学はさほど遠くないのに毎朝キャデラックがお迎えに来ていました。

玄関や廊下で合うと“ハロー”といつも声を掛けてくれました。

後で聞きましたら留学中のイランの皇子さまだったそうで、私の友達には

”多恵子はバカよ。日本の石油の為にもっと彼と親しくしておくべきだった”

などと言われました。残念。私は音楽に夢中でしたので。


No.25 ユダヤ人

アメリカ人はアメリカ人、と思っていたのですが特に音楽家はユダヤ系の方が

多く、自由を求めてアメリカに渡って来た人達がアメリカの音楽界をリード

していた事が解りました。

ルビンスタイン、ハイフェッツ、ピアテゴルスキー、等超一流の音楽家が

集まって居ました。ベルグマン先生もその一人でライプチヒやボンの歌劇場の

指揮者だったそうですが、外人部隊と言うのに入ることでアメリカ国籍を取り、

アフリカで戦い、ようやくアメリカにたどりついた方でした。

私の人生で3人の尊敬する師をあげるとしたらベルグマン先生が一番に来ると

おもいます。その素晴らしい音楽性が私を目覚めさせ、音楽に向かう生き方を

示してくださった恩師です。

ある日そんなに有名な先生が奥様とラウンドリーで大きなシーツの端を持って

ぴんぴんと引っ張っていらっしゃる所に出会いました。

私の下宿には洗濯機も乾燥機も無かったのでそこに時々行っていました。

“ハーイ、多恵子!!”と明るく挨拶され、プライドも恥も無く、奥様を手伝う普通の

アメリカ男性になっていらしたのにはびっくり、私の方が見てはいけない所を見て

しまった子供の様に恐縮していました。

日本の音大の先生が奥様と洗濯やへ行くかしら、きっと困った顔をしてすぐに

威厳を保つ顔になっただろうな、等と思いました。

ある週末には私をピクニックに誘って下さいました。

ピクニックと言う言葉は知って居ましたが、日本では経験した事が無かったので、

火起こし、パン焼き、アイスボックスという物にはサラダの材料や鶏肉、

それを紙袋に小麦粉やハーブ、と一緒に入れてバサバサと振り、大きな鍋の

オイルでから揚げを作り、今では日本でも珍しくない事でしょうが、そうやって

コーティングするのか―と偉く感心し、フーフー言って綺麗な紙ナプキンで

くるんだ鳥の足にかぶりついた時のおいしかった事!

もちろん日本にケンタッキーフライドチキンが入ったのはそれよりずっと後だったと

思います。先生はお子さんが居られなかったのでまるで娘が出来たかのように

可愛がってくださいました。

でもレッスンとなるとあの厳しさが私を圧倒するのです。

その先生が急に亡くなってしまった時はショックでした。

奥様によると“体中から血が噴き出して、、、”と言う事でした。

動脈りゅう破裂でした。先生を失ったロスは当分続きました。


No.24 先生方のこと 続

最近年と共に昔の先生方のお名前が出てこない事があります。

忘れる前にしっかり残したいお名前やエピソードが幾つかあります。

勧められてメトの歌手で有名な先生のレッスンを受けてみましたが、

唯大きな声でワーワーと何回も歌わせるだけであまり学ぶ事が無く、

レッスン代がとても高かったので止めてしまった事もありました。

前にも書きましたが生徒が先生を選べるというのは良いと思いました。

遠慮もシガラミも無く自分の取りたい授業を値段とも相談しながらカタログから選ぶ、

と言うのは新鮮でした。

 

宗教音楽の専門家のDr.ホートンは“メサイア”のソリストのオーディションを受けなさいと教えてくださり、ソプラノの最初の“There were Shepherds”と言うだけを何回も何回も直されました。

日本では英語は出来る方だと思っていた私でしたが日常の買い物が出来てもステージで

アメリカ人達に劣らないようなはっきりした発音をするのはとても難しい事でした。

ボストンの有名なハイドンヘンデル協会の指揮者Dr.レノンの推薦でブラームスの

“ドイツ レクイエム”のソロも歌わせていただけたのも大変勉強になりました。

本番が大雪の日で皆さんがマイ カーで帰って行かれるのにソリストの私は長靴をはいて

雪道を一人歩いて帰ったのを覚えています。笑。

学内で私を呼びとめてコンゴールドの“死の都”の楽譜にサインをして

「アメリカ人はあまり歌ってくれないのだけれど貴女には合うと思うからあげよう」と

Dr.コルネイユが下さった楽譜は今も大事に持っています。

とにかく皆さんに可愛がっていただきました。

 

留学記No.18 で書いた聖歌隊のミセス ジャレットのお嬢さんがガーデン パーティ ウェディングを

なさる事になり、ソロを歌ってくれないかと言われました。

ガーデンでの結婚式と言うのも初めてで、映画に出てくるような雰囲気でした。

素敵だったのは最後にバンドが演奏を始めた時、新婚の若夫婦が踊り出すとミセス ジャレットの長く離婚している昔の旦那様(花嫁の父)がやさしく元の妻、ミセス  ジャレットを誘い二人で踊りだした事でした。

ミセス ジャレットがとても幸せそうで涙が出ました。この日だけはお二人にとって幸せだった昔が

戻って居たのがガーデンに招かれた全ての人の胸を温めました。


No.23 忘れてはいけない先生達 

現在の私を育ててくださった先生方との出会いは忘れてはいけないと思います。

発声のマクロスキー先生は奥様のバーバラも声楽家で、ボストン郊外の海に近い

ダクスベリーに大きな白い家とヨットももっていらっしゃいました。

見せたいものがあるから是非泊りにおいでと言われて泊めていただきました。

夜は窓をちょっと開けたまま寝なさいと言われたのが寒かった事と朝ご飯が山の様な

新鮮なマッシュルームをバター焼きしたものだったのが印象的でした。

地下室には大きな樽があってアイスクリームが一杯、山もり3スクープもすくって下さって

びっくりでした。日本での銀の入れ物の小さなアイスと比べて笑ってしまいました。

アイスクリームを樽で買って大きな冷凍室に入れて置くなんて。

だからアメリカ人は皆太って居るのですね。

母屋から音楽室に渡る内庭はガラス張りの温室になって居て世界中からの植物が並んでいました。

「これを多恵子に見せたかったのだよ、日本から取り寄せた”チュバカイ"だ」

「え?何ですって?」と美しい大きな真紅の椿の木を眺めました。

TSUBAKIはチュバカイと発音されてしまうんだー!確かにアメリカでは椿に出会いませんでしたから

大変珍しかったのでしょう。

 

ずっと後にこのマクロスキー先生を日本発声学会の米山先生と日本にお呼びして

発声の講義をしていただけた事はほんの少しの恩返しになったかと思って居ます。

 

吹奏楽部のクリスマン教授がシンフォニックバンドの演奏旅行にソリストとして連れて行って

下さった事も忘れられません。当時既に映画音楽の編曲で有名になっていた

Maddenさんの編曲で"Over the Rainbow"を歌って下さいと言う事でした。

アメリカ人なら誰でも知って居る曲でしょうが私はポップスが初めてで、大きなシンフォニックバンドと

歌うのも初めて、実に気持ち良かったです。

それ以来、今も"虹を越えて"は私のオハコになり、アンコール等でよく歌わせていただいています。

日本に居たら経験できなかった事が次々と与えられ、その度に歌い方や発音を教えていただきながら

アメリカ音楽の楽しさにはまって行きました。


No.22 日本と違う先生方との関係 

ここで先生方について少しお話ししたいと思います。

日本では先生は偉い方、すれ違ったらお辞儀をして通るものでしたが

あちらの先生はレッスンでは厳しく、でも普段は友達の様に付き合い、

親の様に親切にして下さり、生徒も尊敬心を持ちながらお付き合いする、

これは今教える立場になった私が今も大切に守って居る事です。

英語では"You"は"You"しかないのも気分的に楽でした。

 

大学の総長だったDr.ケースとエレヴェーターで偶然2人きりになってしまった事があり

小さくなって下を向いていると、"おはよう、貴女の黒髪にそのヘアスタイルはよく合いますね。"

と声をかけてくださり"サンキュー"を言うのが精いっぱいで、まさか総長が1留学生の私に

声をかけてくださるなんて夢の様でした。

礼儀的お世辞で言って下さったとしても嬉しかった!

 

皆に嫌がられている音楽部長のDr.ケネディが生活に困っていた私にアルバイトを紹介して

下さったのです。

先生が属しているフラタニティで歌う、それしか解らないで一人で電車で出かけました。

重い黒いドアを開けると中高年の男性が大勢刺繍したエプロンのような物をつけて

暗い部屋にローソクの光りで集まって居ました。

後で解ったのですが1805年から続いている「騎士秘密結社団」[注]と言う男性達の集まりで、

私に歌わせることでお金の支援をして下さったのです。

とても恥ずかしかったのは先ずアメリカ国歌を歌ってほしいと言われた事です。

メロディは知って居ましたが言葉は解りません。誰かが急いで歌詞を書いて下さいました。

今思っても恥ずかしい!今でもどういう会だったのか解りませんが

ダヴィンチコードに出てくるような世界を垣間見た事はちょっとした経験でした。

 

次はボストン交響楽団のコントラバス奏者で大学も教えていらしたポルトノイ先生です。

私に"日本人? 日本人は我等ユダヤ人と同じだね"と言われるのです。

"は?"と聞き返すと"第一、先祖を大切にするだろう?第二、朝から魚を食うだろう?

(彼らはニシンの塩ずけ、日本は鮭の塩焼きでしょうか)、そして第三、俺達両国は

どんなにたたきつぶされても立ちあがる!イエス? ヤー?"とユダヤ人の大きな鼻を

私の顔に近寄せて言われたので"イエス、イエス"と言わざるを得なかった事です。

ユダヤ人は今もメシア(救い主)を待っているのでキリストは信じて居らず、彼らの厳しい

掟の中で今も生活をしているのでした。彼によると日本人はあんなに原爆でやられても

立ちあがったのは素晴らしい、と、御自分達の歴史と比べられたのだと思います。

後に彼はディナーに呼んで下さったり、タングルウッドの別荘に呼んで下さったり、

遂には私の結婚式で花嫁の父役をして下さって教会で腕を組んで通路を歩きました。

すばらしい音楽家の先生と歩くのですから結婚マーチのリズムに乗った私達は最高に

上手に歩いたと思います。

  

[注] The Grand Commander of Knights Templars 1805年結成 秘密結社騎士団

 


No.21 友達のこと 

掲示板で知り合い、部屋代を2人で払う事になったエジプト人、モナ フィックリーは

クレオパトラのような美人でお父様はアレクサンドリアの大学の教授だそうで、

彼女の専門は音楽史です。とてもよい人なのですがそれぞれの国の習慣の違いが

段々わかってきてまごまごしたものでした。

私が白いご飯を鍋で炊くと砂糖とバターをたっぷり入れてしまうのです。

味のない白いご飯は美味しくないと言います。

朝は彼女の作るターキッシュ(トルコ)コーヒーに始まり、これは美味しかったけれど

お母さんから送って来るお菓子(パクラバ)やパンは私にはすごく甘過ぎでした。

日本の小豆あんのお菓子や沢庵は「グーい―(まずい!)」と言うので

夕食はべつべつにしようということになりました。

一番びっくりしたのはモナは何も着ないですっぽんぽんで寝るのです。

神様からいただいた体毛は切ってはいけないそうで、黒い毛がふさふさしたまま、

豊かな乳房を揺らして「ねえ、多恵子!」なんて言いながら私の寝室に入って来ると

女性でもなんだかドキドキした位でした。外人は日本人の様にどこかを隠す習慣がないので

大手を振って裸で歩きまわるのには驚きました。

後に彼女は私の結婚式にはブライドメイド(新婦の付き添い人)になってくれましたが

今はどうしているでしょうか。エジプトで偉い学者になっているのかもしれません。

ちなみに彼女の修士論文はボッケリーニの研究でした。

 

ソプラノのタキ モンロウ、スーザン ストーン、メゾのジャネット ウィンバーンとも仲良しになりました。

テノールのデヴィッド、バリトンのピーター、この人はタキが好きでヴァレンタインの日に10通も

カードを出したそうですが、タキからはチョコレートも何も来なかったとしょげていました。

韓国からのキム、中国のウオング(漢字ではウオングを女性は[黄]、男性は[王]と書くのだそうです)、

等インターナショナルな友達もたくさん出来ました。

後に主人になった塚本クンもいましたが名前を知らなかったし英語が上手だったので

中国人か韓国人だと思っていました。


No.20 レッスン色々 

“Good Girl!”、先生方は小さい子を褒めるようにそう言って私を褒めて下さるのです。

“いい子だ!”なんて言われると嬉しくなる私。そして遅まきながら私は開花して行きました。

発声はマクロスキー、オペラはマルゴリス(メトから飛行機で来られるのでレッスン代が高かった)、

オペラ演技がサラ コールドウェル、そのためのコーチ(下稽古)が4人の若い男性で、

ピアノもオペラのどの役もぺらぺらなので私の歌いだしをチェックしたりアンサンブルを

一緒に歌ってくれる、(日本にはこのコーチ役が不足していると思う)、

小人数のマドリガルアンサンブル、バッハファミリーの本で有名なガイリンガー先生の講義、

(これは実技で勝負できず、半分くらいしか解らなくて困った、先生の英語も変なドイツ語なまりの

英語なので、親切な友達ジャネットにノートを写させてもらった)、もっと困ったのが

大学院のイントロダクションという授業で、コンサートを聞いて来てその批評を新聞に書くのです。

何時、何処で、誰が何を演奏したか、表現力、テクニック、観衆の反応、本人が意図するテーマ、

そして容姿迄を、英語で書くのです。これも友達に文法の間違え等を直してもらってから

タイプライターで打って提出した事を白状します。

もう一つ、図書館の図書やレコードのカード作りと整理。

色々の分類ですぐ探せるように引き出しに整理するのです。

苦労したけれど楽しかったのはベルグマン先生の歌曲の時間でした。

先生は元々はドイツのボンのオペラ座の指揮者でしたが、エリザベート シューマンの伴奏者として

世界中を回った方でした。

ユダヤ人故に迫害に合い、外人部隊と言うのに志願することでアフリカに送られ、

戦後自由を求めてアメリカにたどりついた、と言う結構年配の方でした。

原爆の国から来た私にとても同情的だったのは御自分の過ごされたいやな経験と私を重ねて

見て下さったのかもしれません。

デュパルク、シューマン、ブラームス等を厳しく教えて下さるのですが、

まず「意味を言ってごらん」から始まります。

意味はちゃんと日本語で調べてありましたがそれを英語でうまく言えないのです。

日本から持ってきた独和、仏和、辞典とそれを和英辞典で英語にするので3冊持って行かないと

英語で説明できないもどかしさ、でも“Good Girl!”とおだてられるとニコニコしてしまう私、

先生はお宅にディナーに呼んでくださいました。

「食前酒はチンザノでよいですかな?白?それとも赤がお好みかな?」

え?え?何も解らなくてまごまごしながら食事の作法や食前酒の事まで教えていただきました。


No.19 ベビーシッターを信用 

毎晩9時になると“Good Night!”と言って鍵束をかちゃかちゃならして練習室を回って来る

人のよい小使いのお爺さんとも仲良くなりました。

家にピアノがない留学生が主に夜練習室を使うので、フィリピン、インド、韓国、中国、

の学生達と下手な英語で噂話をするのも楽しみでした。

練習などしないで夜は彼氏の車でデート、と言う人達の学生寮の門限は2時AM、と言うの

だけでも驚きましたが2時少し前の駐車場の車の中は別れを惜しむキツスシーンがすごい、

我等東洋人にはショックだと教えてくれたのも留学生たちでした。

掲示板で探した教授のお宅でのベビーシッターも楽しくてよい思い出です。

アメリカでは夫婦で食事会やパーティーに出掛けるのが常なので子供は小さいときから一人で寝る、

添え寝なんかしてあげないで子守歌のレコードをかけてキスをして親は出掛けてしまうのです。

いやだと泣く子もいないし私から見るとなんだか可哀そうのように感じましたが、見ず知らずの

留学生の私を信用して大事な子供を任せる事には感心しました。

今も覚えていますがクリストファーという男の子でしたが火事等がない限り何もしないで一人で

寝かせておくようにと言われました。

冷蔵庫にはジュースがあるからどうぞ、レコードも掛けてよい、と言う好条件でもっぱら宿題をしたり、

単語を調べたりしていました。

夫妻が帰られるのは大抵12時近くでしたが、1時間につき1$なので大抵5$位いただいて、

教授が私にコートを着せてくださり車で下宿まで送って下さるのでした。

居間も冷蔵庫も清潔できちんとしていて台所にはトースターもヤカンも置いてなくて(部屋が広いので

何でも戸棚に収納されている)アメリカンハウスの良さを痛感しました。

私もああいう風に暮らしたい、等と思って帰国したのですが、現在私の台所にはごたごたと物が置いて

あり、他人様には見て欲しくない乱雑なへやに住んで居り、お恥かしい次第です。

でも部屋別に色を決める事は今も守って居ます。浴室、トイレは紫系、(タオル、石鹸、スポンジ、桶、

絨毯、全部紫系)台所は黄色系、と言うように。

贅沢のように聞こえますが色調を揃えるっておしゃれで楽しいですよ。

一番感心した事は階段も全部オフホワイトのじゅうたんが敷き詰めてあり、靴のまま出入りしているのに

どうしてあんなにきれいなのだろうと言う事でした。

後で段々解った事はアメリカの女性はよく働く、始終働いて家を磨きたてている事でした。

映画で見るような優雅なレディファーストのアメリカの女性は実は質実剛健、だからこそ夜は

おしゃれをしてご主人とお出掛けし、子供はベビーシッターに任せる、この切り替えの上手さ、

夫婦と言う最少単位の社会構造を大切にして居るのだなーと羨やましく感じた事でした。


No.18 大学の掲示板 

英語がうまくしゃべれない私にとって特に掲示板をチェックするのは大事な日課でした。

色んなオーディションの案内から、学内の公演、無料のボストン交響楽団の券、

ベビーシッターのアルバイト、デートの相手探しまであるのです。

掲示板で知り合った音楽史専攻のエジプトの女性はルームメートになってくれて

家賃を半分出してもらう事が出来ましたし、教会のソリストの仕事も探せました。

「ファースト バプティスト教会のソプラノソリスト求む、週1回の練習と日曜日の礼拝で

ソロを担当で週給$15」と言うのを見つけてドキドキしながら電話を掛けて見ると、

オーディションの日時とメンデルスゾーンの「エリア」のソプラノアリア“Hear Ye Israel”を

聞かせてほしいということでした。

今まで歌った事がない曲でしたが大学の図書室で楽譜をコピー(当時のコピーは

アイロンのような物でギューギュー熱で押しつけてコピーする)をし、練習室で

生懸命練習、何とか歌えて初仕事をゲットしました。

アメリカの学生は大声、美声の人は沢山いますが自分でピアノを弾きながら短時間で

新曲を学ぶのは苦手な人が多い様で、芸大での教育に感謝しました。

家がクリスチャンだったので礼拝の進め方には慣れていましたが、聖書、讃美歌、主の祈り、

すべて英語なので慣れるまでは緊張しました。

 

ここで又すばらしい指揮者、ミセス ジャレットと知り合えたことは宝でした。

毎週日本では聞いた事がない素敵な曲の宿題を下さり、お金をいただきながら教会音楽の

レパートリーを増やしていただくのですから最高でした。

娘のように可愛がってくださり食事にもたびたび呼んでくださったのですが、キッチンに

ディスポーザーと言う物があり、レタスやトマトの芯まで突っ込んでスイッチを入れると

一瞬でガーガーと砕いて流してしまうのにはびっくりでした。50年も前の事です。

何かにつけて「こういう国と戦争したって勝てるはずないヨ」と思ったものです。

そして当時教会に行く時は必ず帽子と手袋をつけ、オシャレをして出席する事も学びました。

ここでいただく$15は丁度一週間分の食費と成り、とても助かったのです。


No.17 “私の名はミミ”

ロシア貴族ペルツォフ夫人のお蔭でオペラの授業も受けられるようになりました。

そして又、当時はまだ日本ではあまりなじみのなかった“オーディション”で始まりました。

先生方がコソコソ話合われたあと、“タエコは ラ ボエームのミミを勉強しなさい” と言われ、

“サンキュー、どのアリアですか?” と聞くと “1冊全部、来週までに” と当たり前だと言う顔を

されました。

日本では1つのアリアを何カ月も期末試験の為にやっていたのでこれにはびっくりでした。

1週間単位で1冊と言うアメリカ式スピードと量の多さ、これをどうやってピアノもレコードも

無い私が出来るのだろうとパニックになりました。

部屋を出る時呼び止められました。 “What is your name?” と。 

“タエコ” というと “No, Mimi です。今日からは寝ても覚めてもミミです。

髪の毛の色、年齢、お金持ち? 全部考えなさい。” 

その後私がどういう顔をしてその部屋から出てきたかは覚えて居ません。

この日の事はオペラを勉強する時の基礎となり、

When, Where, What, Why, 何時、何処で、何を、何故歌うのかを確認してから

初めてHow (どういう風に声を出すのか、どういう風に表現するのか) を考えなくては

いけないのだと言う事を学びました。

日本ではHow (高い声を出したいとか、大きな声を出したいとか、音程、技術) ばかり

勉強していた自分に気がつき、今も若い方達に伝えつづけております。

その日から大学の地下の練習室で必死の勉強が始まりました。

9時になると小使いのオジサンが来て “Go home!” と言って追い出されるのです。


No.16 ロシア貴族 

先生方を“ハーイ、ディック、テッド、ビル” と呼べるようになってきたのですがドイツリードの
ベルグマン先生だけは“Herr(Mr.)かプロフェッサー(教授)” と呼んだ方が喜ばれる と

誰かが教えてくれました。
ドイツ系の国では日本と同じように敬語を使うのが普通なのかな、と興味深い学習をしました。
なにしろアメリカは世界中の移民が集まっているので、フランス語、ドイツ語、イタリー語、

ロシア語、スペイン語、と発音を教えていただくのには不自由しませんでした。
本人はアメリカで育っても御両親は今でも母国語と言う方が沢山居られました。
基本の声楽やピアノのレッスンは奨学金がカバーしてくれていましたが、オペラのクラスを

受けるには$200を払う事になっていたので時間割には組み込めませんでした。
そんなある日、オペラ科の主任サラ コールドウェル(Sara Coldwell)、

タイム誌の表紙にもなった方、

“タエコはオペラが嫌いなのか?” とおっしゃるので

“お金が足りなくて、、” と正直に答えましたら ちょっと考えて

“明日の夜私と一緒にパーティに来なさい、着物を着て。” と言うのです。
翌日サラ自身で運転する車でボストンから1時間くらい、いまだに何処へ行ったのか

解りませんが、お城のような豪邸に着きました。
コートを預ける人や案内する人にサラがチョイとチップを渡されるのを横目で見ながら通されたのは

まるで映画で見るような豪華な大きな部屋、シャンデリア、カクテル、御馳走、紳士、淑女のドレスに

見とれてしまいました。
女主人はロシアから移民してきた貴族で、ミセス ペルツォフとい言う素敵な老夫人でした。

“今から日本から来た少女(え?)が歌います” と言われてよく話が解って居なかったので、

とにかく口の中の物を飲みこんで蝶々夫人のアリアを歌いました。
するとミセス ペルツォフがさらさらと小切手を書いて

“これでサラの元でオペラを勉強しなさい” とおっしゃったのです。

見ると$200、サラがどういう風に私の事を話して下さったのか全く解りませんがニコニコして

私を見て喜んでくださいました。
見ず知らずの留学生のためにパッとお金を出して下さるなんて本当にびっくりでした。

それもロシア人が。
恥ずかしい事にご住所も伺わず、お礼状も書かなかった私、今思っても恥ずかしく、

でも夢のような出来事でした。
アメリカではこういう映画みたいなことが起こるのです。
と言うわけでオペラの授業も受けられるようになったのでした


No.15 リラックス

初レッスン、大柄の男の先生の前で、敗戦国から来たのだと言う気持ちが

まだどこかにあった私は、直立不動の姿勢でオドオドした猫のように立っていました。

“ハーイ、タエコ! コール ミー David(デイヴィドと呼んで)” 
“え? デイヴィドって呼んでいいの?そうか、日本のように先生、貴方、お前、

なんてない、みんな You か!”  と急いで笑顔を作ったのを覚えています。
“Relax”これがデイヴィド マックロスキー先生に何度も言われた言葉です。
考えて見れば芸大ではリラックスしてレッスンを受けた事はありませんでした。
レッスン日は何時も下痢、体も喉も緊張して唯、唯、一生懸命だったように思います。

デイヴィド先生は私をゆったりした椅子に座らせ、体中の力を抜いて手も足もだらりとさせ、

目を閉じて眠りに入る時のようにしなさいと言われました。

そんな、無理よ、急にリラックスなんて。

先生は私の手を持ち上げて、ストンと落ちるか、頭をつついてグラリと傾くか試されました。

その状態のまま「ハー」とため息を出させ、そのまま歌いなさい、声帯周辺の筋肉も

リラックスして居るはずだ、と教えてくださいました。

肩が上がったり、首筋に青筋が出たりせず、足やお尻も固くしないで、

先生が私の緩んだ顎を押し上げた時カチンと歯が音を立てて閉じるハズだと。

リラックス、リラックス、唯一固くなって居て欲しいのは横隔膜だけ、と。

私にとってこれは大発見と言うよりショックに近いものでした。

そうか、アメリカ人の陽気さはリラックスから来ているのか、体のリラックスは精神的リラックスなのだ、

それはその後の私の考え方、生き方に大きな影響を与えました。

リラックスはどうでもよい、だらけてよい、と言うのではなく、自然に近い状態にすれば

発声器官(声帯、舌、口びる)が解放されその機能が十分発揮できるのだと言う事を知りました。

この日以来私のアメリカ生活はもっと楽しくなって行きました。

リラックス!リラックス!リラックス!

 


No.14 ボストン大学(BU) 

メリカの大学は9月が新年度の新学期です。
ボストン大学は医学部、法学部等すべての学部がある総合大学で、

私が在籍したのは音楽、演劇、美術の FineArts 学部です。
当時は簡単に行かれなかったので日本からカセットテープで

オーディションを受け、ハワイでオーケストラのソリストを務めたことも

伝わって居て入学は歓迎されたようです。

先ずびっくりしたのは学校のカタログ(案内書)の末尾に先生方の

略歴とレッスン代が書いてあり、自分の力量や経済状態で生徒側から

先生を選べることでした。
例えばニューヨークのメトロポリタン オペラから毎週飛行機で来る先生は

レッスン代も高い、というように。
声楽と言っても発声の先生、リード(歌曲)、オペラ、演技、下稽古をして

下さるコーチの先生方が私のスケジュールを全部埋めてしまうのです。

その忙しい事と言ったら、、、。
日本では声楽の先生が一人で何から何まで教えなければならなかった

時代でしたから本当に感激しました。
一応英文科を卒業して行ったはずでしたが、横隔膜とか気管支とか肋骨とか言う

医学用語が解らなくてポカンとしていましたら先生が御自分の大きなこぶしを

私の横隔膜に当て、“さあ、横隔膜の力で僕を押し返しなさい、もっと強く!!”

と言われ、中々歌を歌わせてもらえなかった事を覚えています。
体の訓練が声と関係ないと思って喉をふりしぼって居たので目が覚めたようでした。
大学内のホールで新入生のプレイスメント オーディション(配置を決める)

と言うのがあり、そこで先生方が揃って私の歌を聞き、何を誰が教えるのが

私に必要か、を審議するのですが、

歌い終わった時一人の先生が褒め言葉を下さった後、真面目な顔で

“Are you Geisha(芸者)?”とおっしゃった時はちょっとムッとして“Oh, No!”と

言ってしまいました。
後に当時の多くのアメリカの人は歌や踊りの道を極めたプロを「芸者」と言うと

思っていたのだと解りました。
芸大時代には褒められた事が無かった私は生まれて初めて褒められ、

認められる喜びを感じました。
“原爆を落とされた国から来たと言うのに、どうしてあなたはモーツァルトを

あんなに音楽的に歌えるのか、貴女の音楽センスはすばらしい”と。
不思議でもなんでもない質問にちょっと戸惑った私でした。
この国は良い所を見つけてほめて育てるのだと言う事を初めて知り、

それは今でも私が若い人を教える時に大切にしている事です。
人は褒められた方が伸びます。叱られて萎縮してはのびのびと歌えません。
毎日が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。


No.13 家主は魔法使い 

家主はエヴァ ラコステと言う魔法使いの様なオバアサンで、

世界中を旅行した自慢話をしてくれました。

1階のリビングは高価そうな骨董品で足の踏み場もない位でした。

部屋代$10は毎週小切手でエヴァの部屋まで払いに行きます。

タエコと言うのは覚えられないからとテリーと呼ばれました。

バナナを冷蔵庫に入れて置きましたら”バナナは入れるものじゃない”と

叱られました。

門限は一応2AM, といわれてエツ?とびっくりしたものです。

”男友達が来るときは必ずドアを開け放して置きなさい”ともいわれました。

私は今から始まる音楽の勉強の事で夢中でしたからボーイフレンドなんか

居ませんでした。

ある日、”テリーのお兄さんがきたよ”と言われ、私には姉妹しか居ないので

居留守を使って3階の窓から覗くと、ボストンに着いた日に1度だけお会いした

Sさんと言うライオン歯磨き社からMITに研究に来ている方が立っていました。

彼はその後アメリカにまだ無かった魚肉(ツナ)ソーセージの事業を始めましたが

うまく行かず、日本に帰られたと聞いていました。

後に母からの手紙に同封されていた新聞の切り抜きに

「ボストン留学中のS氏が失恋が元でガス自殺」と言うのを見た時にはちょっと

複雑な感じだったのを覚えていますが、私関係ない!です。

 

実は何年か経ってから隣のビルに後に夫となった塚本君が住んでいた事が解り

2人で大笑いしました。

あの時代、日本からの留学生の99%は男性でしたから日本女性というだけで

存在は目立ったのかもしれません。


No.12 ままごと生活開始 

早速アメリカ式に朝のシャワーを浴び(ハワイで練習済み)、下宿探しです。

大学の寮は学部生のためで、大学院生は下宿を探さなくてはなりません。

窓に"for RENT"と貼ってある所を片端から尋ねました。

大学まで歩いて行けて、1週間$10までで、よい感じの家主さん、という条件で

ビーコン通りの3階の1部屋を見つけました。

広い家具付きの部屋、台所と浴室は共用、窓からビーコン通りが見降ろせました。

ラ ボエームのミミになった感じでした。

部屋の奥にウオーキング クローゼットがあって奥に、多分帽子や靴を置く為

棚があったので自分用のキチネットにしました。

さて、と思ったら御箸が無い事に気がつきました。

私も日本人、御箸が無いと料理が出来ないので、近くの藪からなるべく真っ直ぐな枝を

2本調達、近所のファースト ナショナル マーケットでぺティナイフを買いました。

そのナイフは65年たった今でもここにあって毎朝思い出と共に果物ナイフとして

役に立ち続けています。アメリカ製ってガンジョウです。

食費は1週間$10と決めて頭の中で暗算しながら初めてカートを押して買い物をしました。

ハワイで「犬や猫の顔が付いているカンズメは安いけれど買っちゃダメ、あれは人間のではないから。

それから安く上げようと思うならキャンベル スープの"チキン&ヌードル"スープの缶だけ買って

居れば栄養もあるし結構お腹が張るよ」と聞かされてきたのでチキンとターキーのヌードル スープの

缶を買いました。1缶19セントでした。今考えたら何て安かったのでしょう。

アメリカにはこんなおいしい物があるのかと感激したのは紙パック入りの100%サンキストオレンジの

ジュースでした。

紙箱に液体が入って居るとは。日本にはまだそんなものはありませんでしたから。

母に後で聞いたところオレンジジュースと言う物が最初に日本で出たのは何年か後で、

果汁入り炭酸水だったそうです。

 


No.11 心が大きいアメリカ人 

私の最終目的地ボストンに着くまでにはまだまだ多くのアメリカ人の温かい支援がありました。

「鬼畜米英」と教えられたアメリカ人は皆やさしい人達でした。

スタンフォード大学を案内して下さったアラビア石油の方のコンヴァーティブル(オープン カー)には

ちゃんと女性用のサングラスとスカーフが用意してあってびっくり。

オハイオ州ではローボー夫妻の緑の中の美しいお家に泊めていただき、

その時工房でつくって下さった木彫りの人形はまだ持っています。

 

今なら直行便で行ってしまった方が楽だと思いますが、若く元気で何でも知りたがりの私は

4発エンジンのDC6を乗り継いではアメリカと言う国の大きさと豊かさにびっくりし、

ちょっと飛ぶと時計の時差をずらして行く事にまごまごしていました。

どこのお宅にもTVや洗濯機があり、冷暖房完備でひねればお湯が出る、

当時の東京の家には何もなかったし寒かったし暑かったし、勿論車などありませんでしたから

大きなアメリカ車を見ては"ア、外車だ!"と嬉しくなって居た浦島多恵子でした。

 

ボストンに着いた時”ローガンエアポート”と言われて急に不安になり、

”あのー、ここはボストンですか?“と聞いて降りたのを覚えています。

空港には1年前から行っていたしっかり者の妹昌子(ヴァイオリン)が江谷氏とナンシー夫人と

出迎えてくれて思わずハグしてしまいました。

そう、長女の私は弱虫で内気で何でも昌子が先でした。

翌日から私の下宿探しが始まるのですが、改めてどうしてこんな良い人達のいるアメリカと

戦争してしまったのか、勝てるハズが無い豊かな国を相手にしたのかと自分の国が取った

愚かな道に愕然としました。

 

現在も私達日本人は家が狭いとか恥ずかしいとか言って後進国から来て居る留学生や

実習生の方達を食事に招いたり、泊めてあげたりして居ないのを恥ずかしく思います。

人を心からもてなす事を教えてくれたアメリカでした。 


No.10 やっとの出国 

正直を言うと"結婚はしません"と大使館でサインした私でしたがどこか心の奥で

アメリカでいい男性にめぐり逢えたら結婚したいなーと言う気持ちが無かった

と言ったらウソになります。

父は外科医で、日本で3回位お見合いのお話しが来たのも皆お医者さんでした。

芸大時代に付き合った男性には大反対されましたから科学系の人、そして父が

嫌いな青い目でない人、そんな人がいたらなあという淡い夢はありました。


9月過ぎに大きなスチーマ‐トランクが着くまでの必需品、楽譜、厚手のコート、

着物一式、草履、ハワイで着たい水着等も入れると20キロまでと言われた

スーツケースは満杯でした。

母に大きなポケットをレインコートの裏に縫い付けてもらって英和辞典、和英辞典を

入れたまま着たコートの重かった事。

カメラ狂の父からは新しいカメラをしょわされて動けなくなりそうな姿で1958年7月

やっと日本から空へと足が離れた時のホッとした気分は何とも言えませんでした。

同時に今からはすべてが自分の責任なのだと心を新たにしたのでした。 


No.9 何故アメリカへ?

「音楽留学」と言ったら現在でもドイツかイタリーと考える方が多いでしょう。

アメリカへ行ってジャズでもやる気かと聞かれたこともありました。

当時の日本のラジオから流れる洋楽の編曲は私が聞いても幼稚でしたので

進駐軍むけのラジオを聞いて、心にびりびり触れる新しい音楽を

何て素敵なのだろう、ういう音楽が流れる所へ行きたい、と思いました。

「音が苦」でなくて「音楽」はもっと自由で楽しいはずだと思ったのです。

芸大を出てもどうしてよいか解らなかった私を目覚めさせ成長させたのは

アメリカ行きでした。

とんとん拍子の様に聞こえる私の留学でしたが、努力、苦労、そしていろんな方々からの

援助でやっと開いた道でした。

女子大時代の宣教師、ミス チャペルがボストンへ行きなさいとアドヴァイスして下さり、

日本に演奏に来られたカッサード女子が私の歌を聞いて下さって自分が在米中の

保証人になるから、といって下さり、旧第一生命で毎週マッカーサー元帥が礼拝に来る時の

聖歌隊に入れてくださった中田羽後先生、ハワイのシンフォニーの指揮者バラティ氏に

推薦して下さった福井巌先生等、私の周りには素晴らしい理解者がいて、私のお尻を押して

下さったのです。

一つ言えるのは私が人懐っこくて明るい人間だった事はとても得になったようでした。

もう25歳になっていた私はフルブライトの最後の面接試験で"アメリカでは結婚はしません。

帰って来て日本の為につくします‐YES"とサインし、交換留学生ヴィザ"Exchange Visa"を

手に入れたのです。後に私はその約束を破ることになるのですが。

 


No.8 当時の留学事情

ここでどうやって私の様な者が留学出来たのかに触れて置きましょう。

当時はまだ自由に米国との往来はできない時代でした。

1$は¥360で、出国する時は$25分しか両替してもらえず、母がどなたかに工面して頂いた

$100を着物の襟に縫い込んでくれましたっけ。

明治時代に同志社を出た祖父が、船底に乗って、南京虫に食われながらニューヨーク大学に

留学した人だったので、何となく私もヨーロッパよりアメリカに往きたいと思っていました。

芝にあったアメリカンセンターでアメリカの大学案内を片端から調べ、学費の奨学金を出して

くれるところはないかと探し、音楽のよい先生がおられる所を探し、日米両政府が留学生支援を

している事を知ってフルブライト留学制度の試験を受けることになったのですが、

今でも覚えているのは九段高校の広い部屋で日本中から集まった医学、化学、等の男性達が

全部秀才に見えて、女性は2,3人、でどうなる事かと思ったものです。それも音楽で留学なんて。

英論文を書かされ、タイトルは″プラスティックス”でした。

無い智恵を絞って「今はピアノの鍵盤もプラスティックになり、」みたいなことを書きました。

2次試験でアメリカ人の試験官と会話になりましたが、秀才に見えた男性達は案外会話が出来なくて、

青学から東女の英文を卒業して居た私がニコニコしながら会話が出来たので、

多分パスしたのだろうと思います。推薦状、成績表等をコピーして提出するのも今とは違って

大手町の印刷所まで何度も行かねばならないという時代でした。

いよいよパスポートと入国ヴィザをもらった時は嬉しくて眠れませんでした。

今思うのは日本のパスポートと言うのはすごい、と言う事です。

信用があって本当に日本人を守ってくれるし、どの国へも自由に行けるすばらしいものなのです。


No.7 レディス ファースト
~ と言うわけで大好きなハワイに再度戻り1日出発が伸びました。

畑支店長のお子さんたちは″お姉ちゃんが帰ってきたと大喜びでした。

翌日ホノルル空港で支店長は整備の人達に「大丈夫か?」「大丈夫か?」と

念を押してくださり、やっと大きな海を飛びました。

最初に降りたのはポートランドで、そこではすでに留学していた従兄弟が迎えてくれ、

彼のスポンサーのお宅に泊めていただきましたが、そこで生まれて初めて出されたのが

コテージチーズでした。味もなくて、なにこれ?と思いましたが我慢して食べたのを覚えています。

多分初めて豆腐を食べた外人たちもそんな風に思ったかもしれません。

え?今は大好きです。野外の大きなドライヴインシアターで車に乗ったまま大画面の映画を見て

車の窓からコカコーラやフライドポテトを買うと言う初体験もしました。翌日はシアトルに飛び、

青学時代のボーイフレンド祐ちゃんが迎えてくれました。祐ちゃんは中田羽後先生の息子さんで、

本人より先生が私の事を“息子のお嫁さんにしたいと思って居る”とある雑誌に書いていらしたのを

後で知りました。

祐ちゃんはランドセルをしょっていた頃から“お嫁さんになってよ”と言っていたのですが、

シアトルでも早速プロポーズされました。

当時の私から見ると外車を乗り回してプレイボーイのように見えたし、いよいよこれから

勉強を始めるのだという期待の方が大きくてそのままおさらばしてしまったのです。

祐ちゃんからは今もクリスマスカードが来ていて良い友達関係が続いています。

たった数日で私は自分で車のドアを開閉しないでレディス ファーストにされるのが

アメリカなのだ、といい気分になって来ていました。

日本で見たアメリカ映画の主人公になれたようで嬉しかったのを覚えています。 


No.6 いよいよメインランド(本州)へ

アメリカの新学期は9月です。それまでの1カ月をアメリカ生活、英語の準備期間に当てるため、

JALのホノルル支店長の畑さんのお宅にお世話になれたのも幸せでした。

宏チャンと浩チャンと言う二人の坊ちゃんがいらして私の英語の発音を直してくれました。

特に″world"を「No,お姉ちゃんチガウよ」と直されたのを覚えています。

此のご一家も私を家族の様にして下さって、ピクニックやドライヴ、ショッピング、

有名ホテルのランチ等に連れて行って下さいました。

今この息子さんも立派に成人され帰国後私のコンサートに奥様や生まれたての

お孫さんをつれてきてくださり、人のつながりの大切さを痛感して居ます。

お別れの時「お世話になるばかりでお返しできない」と言いましたら、支店長さんが

「僕に返さなくていいんだよ。多恵子さんが何時か若い人に親切をしてあげればそれでいい」

と言って下さったのが身にしみて、その後の私の生き方に影響を与える事になりました。

ブーゲンビリアやハイビスカスが絶えず咲き、樹木は平に大きく広がり、

白い鳩が大木に住んでいて、きっと天国とはこういうところだろうと思わされた素晴らしいハワイでした。

ところが本土に向けて飛び立って間もなく大海原の上でDC8機の4つのエンジンの1つから煙が出て

大騒ぎになったのです。

ここまでがあまりにすばらしかったのでこれで私も終わりか、と一瞬パニックになりました。

 


No.5 「アロハ」

「アロハ」は“Happy Life”の意味で、「こんにちわ」「さようなら」「ウエルカム」の

気持ちを表す時は何時でも使える素敵な言葉と知りました。
総領事夫妻には私と同年のお嬢様がいらして学業途中のため東京に残して

いらしたそうで、私を娘が帰ってきたように可愛がってくださり私が小父さま、

小母さまと呼ばせて頂いたのを御喜びのようでした。
領事館の日本人コックさんから、きっと長らく日本の若い女性に逢って

いなかったのでしょう、突然デートに誘われました。
総領事夫人が「国賓に失礼な事を言って!」と謝られたのも今は懐かしい

思い出です。
帰国後も豪徳寺の服部宅に寄せていただき、ご夫妻が亡くなられるまで

付き合いは続きました。
ハワイ大学のイーストウェストセンターでのリサイタル、TV出演等、

シンデレラになったような毎日、カッコいい運転手がドアを開けてくれるなんて

日本では経験した事もありませんでした。


ベッドルームも雑誌でしか見たこともないようなお部屋で写真(白黒)を

一杯取って両親に送り続けました。
父が出国前に買ってくれたリコーのカメラが役に立ちました。
父はカメラ狂でしたから喜んでアルバムを作ってくれていたようです。
Aloha!

 


No.4 「日本人」を意識

その夜、着付けをしにハワイ島のヒロから来たおばあさんに聞かれました。

“貴女日本舞踊やってたでしょ?” “あ、いえ” と否定したのですが、

よく考えて見ると体が弱かったので3、4歳の頃花柳流の先生のところに

行っていたのを思い出しました。

着物を着て観客に向かって左右の足を7部と4部で運んでいたそうで、

小さい頃身についたのだとしたら何でも役に立つのだなあと思いました。

コンサートの後のパーティは日本総領事館が主催して下さったのですが、

こんな私が背中に日本をしょって居るのだと自覚しました。

日本での打ち上げとは違って素敵なパーティーでしたが、

領事館の人達のえばっていた事、アメリカの指揮者や各界の偉い方に対して

恥ずかしかったのも覚えています。

翌日から日系人のお茶の会、ハワイ大学の「能樂の会」等私を歓迎して催して

くださるすべてがチンプンカンプンで本当に穴に入りたい思いをしました。

私は日本人なのだ。もっと日本の文化や歴史を学ばなくてはいけない、

とはっきり思わされました。

終戦後西洋文化に追いつこうとばかりしていた自分が、日本を離れてみて

外側から日本を感じた最初でした。


No.3 大きな星空と海風のワイキキ シェル

本番の日、飛行機でハワイ島に住む着付けの日系一世のお年寄りが来られ、

母がこの日の為に揃えてくれた蝶々柄の振袖を着付け、サツと帯を締め、

頭にヘアピースと花をつけてくださいました。

当時のワイキキ シェルは名の通り大きな貝殻型で、椰子の木に囲まれ、

海風が通ると葉がさわさわ音を立てます。

満天の星空が太平洋の島の上に果てしなく広がり、「美しい」と言う言葉は

こういう時に使うのだと実感したものです。空を見たらB29に狙われる、

と言われて過ごした子供時代からこんなひろい空を見たのは初めてで、

あの夜の感激は今思い出してもドキドキします。

ステージの袖で出番を待ちながら聞いたホノルル交響楽団のドヴォルザークの

8番シンフォニー、あの曲を聞くと今でもこれから始まるアメリカ生活への夢で

胸がいっぱいで涙が出そうだった若い私がもどって来ます。

スポットライトを浴びて一歩出ようとした私にテレビ局のMCのオジサンが

“ミス タケオ!ウエルカム!”と言ったのです。

TAEKOのEとKを入れ替えるとタケオになり、彼らにはどっちでもよいのかもしれませんが、

急に男の名前を呼ばれびっくりしました。

おまけに歌いだして間もなく、スポットライトに誘われて小さなカナブンブンみたいな虫が

口の中に飛び込んできて何と歌を止めずに飲みこんでしまったのです。

その夜私が歌ったのはチャイコフスキーのジャンヌ ダルクから“森よさらば”と

蝶々夫人から“ある晴れた日に”、そして二期会が送って下さった山田耕筰の松島音頭”の

オーケストラ版でした。

松島音頭には少しいい加減な盆踊り風の振り付けも付けました。

特に日系の方々の喜びようは大変で、アメリカ風にピー、ピー、と口笛が鳴りやまず、

何回も日本式の最敬礼をしました。幸せなスタートでした。


No.2 戦争に勝った国へ

4発エンジンの飛行機はウェーキ島にとまって給油、機内でアテンダントのお姉さま方が

私に振袖を着せてくださってホノルルに着きました。

羽田はうす暗かったのにあの空から見た宝石をちりばめたようなホノルル空港を見た時の

感激ったら。

その瞬間からこんな国と戦争したなんて、という言葉にならない差を感じる毎日になりました。

空港ではハワイの日本人会の方々、日本総領事館の方々、新聞社の方々が顔がうずまる位の

レイを首にかけてくださり、総領事館のゲストとなりました。

クラッシック界からは私、歌謡曲界から春日八郎さんが戦後初めての公認ゲストだったようで、

なれない着物姿の私が草履をすっ飛ばした時春日さんが拾って下さり顔から火がでそうでした。

若いと言う事は素晴らしい事です。

何でも吸収し、すべてを楽しんで、ちっとも怖くなかったし どちらかと言うとおとなしかった私が

どんどん花が開くように変わって行きました。

無事着いたという電話など出来ない時代ですから 両親は10日位してから私の手紙が着いて

やっとああ生きていたんだ、と安心したそうです。

3日後、私のデビューとなるホノルル交響楽団との共演がやってきます。

指揮者のジヨージ バラティさん夫妻もお家に呼んでリハーサルをしてくださり、

まあアメリカ人ってこんなに大きな家に住んでいるのだ、家電が揃って居て外車が2台も並んでいて

映画みたいな世界があったのだと(今なら当たり前のことですが)驚嘆するばかりでした。

総領事館での最初の朝食に丸いニガーいフルーツが出ました。

こういう風に淵からスプーンでスクってお砂糖をかけて、と服部総領事夫人が教えてくださいました。

グレープフルーツでした。


No.1 浦島多恵子 1959

柔らかいちり紙がきちんと折り重なって次から次へときれいな箱から出てくる、、

これは魔法だ!とたまげたのがアメリカ上陸第1日目のカルチャーショックでした。

当時の日本の一般の家庭ではテレビも洗濯機もなかったし、トイレは汲み取り式で

くさい場所、紙はゴワゴワでところどころに黒い屑のような物が入っていて100枚位を

重ねて束にしてある物でした。

銀座の楽器店に珍しい西洋トイレがあって「反対向きに座る事」と絵入りの説明が

ついていたのを覚えています。

アメリカへの一般渡航は許されていなかった時代で1$が\360、

私は政府の留学生(フルブライト)として$25だけ持つことを許されてハワイに飛びました。

羽田では水盃、もう一生会えないかもしれないと芸大時代の浅野千鶴子先生はじめ

皆さんが送る歌を歌って下さり、涙の別れでした。