No.3 両親のたっぷり愛で

 

妹が生まれるまでの5年間、私は両親にたっぷり愛され、

両親の夢をたっぷりしょわされて育ちました。相変わらず

体が弱かったので、ピアノだけでなく花柳先生の所へ

日本舞踊を習いに行かされました。

私はほとんど興味なく、付いてくるお手伝いさんの方が

「こういう踊りを習って来ました、」と母に踊って見せて

居たそうです。

一番喜んだのが父方の金沢のおばあちゃんで、

日本舞踊用の上等な着物を送ってきましたが上品で

地味で私は特に好きでなかったのを覚えて居ます。

間もなく止めてしまったようなのですが此の時習った

着物を着た場合の足の運びはずっと身に着いていて

ハワイで日本舞踊の先生に褒められましたっけ。

 

父がレコードを集めて居て手巻きの蓄音機で始終

レコードを聞いていました。私が覚えた「キャラメル」の歌を

聞いた父がびっくりしたそうですがメロディーは名ソプラノの

「カロノメ」(リゴレットより)の真似だったそうです。

ま、耳は小さいときから割りによかったみたいですガ、

「カロノメ」が「キャラメル」に聞こえたのは、当時キャラメルの

箱の上にはおまけのおもちゃが入って居てそれが楽しみ

だった事もあるかもしれません。

 

私は毎晩8時頃2階で寝かされてしまうのですが11時頃

でしょうか、何か楽しそうな話声やお茶碗のぶつかる音に

目が覚め、見回すと自分の周りは真っ暗。

ウェーンと鳴き声を出しましたら階段の下から母が大声で

「泣かないで降りて来なさいよ!」と言うのでペッタンペッタンと

1段ずつ降りて行きました。

3歳か4歳の事だったと思いますがはっきり覚えて居ます。

茶の間では両親がお茶を飲みながら羊羹を食べて居て、

小さい一切れをもらいました。大人っていいなーと思って

それから毎晩夜中にペッタンペッタンと降りて行ったものです。

その頃の癖なのか今も私は寝る前になって何かちょっと

甘いものを食べる悪い癖がついてしまいました。

そして今、再びペッタン、ペッタンと手すりにつかまらないと

階段の上り下りが出来なくなってしまっている私です。


No.2 虚弱児童

 

何時も病気がちで慈恵病院に入退院を繰り返していた

私でしたが、父の医者友達がしょげていた母に

「子供は又造りゃいい」と冗談半分におっしゃったとかで

母がカンカンに怒ったそうです。

お医者さんって案外クールなんですよね。

そうでなければやって行けないでしょうが。

 

小学校に上がっても欠席ばかりで成績表がつけられないと

書いてある紙は今でもここにあります。の集合写真を

見ても私だけマスクをして首に真綿を巻いています。

いつも微熱があって私は多くの時間を一人で2階の

畳の部屋に寝かされていました。

屏風の山水画や天井の木目のうねった波模様が天狗の

顔に見えたので「天狗の山」と言うお話しを作ったりした

のを覚えています。

 

毎晩吸入をするのですが、口を開けさせるため、母が

グリムやアンデルセンの童話を読んでくれました。

「もっと」と言うと母が即席で作った“甲子さんと乙子さん”

と言うおかしな話をしてくれました。

甲子さんが井戸に落ちるところが好きで何度も

「甲子さんのお話しして!」とねだりましたっけ

 

往診に来て下さった峰岸先生(ヴァイオリンも弾かれた)が

「外の道を通る金魚屋さんや豆腐屋さんのラッパの音を聞いて

ドレミで当ててみると面白いよ」と教えて下さったのですが

今思うとすごいアドバイスだったと思います。

夕方になると毎日ラッパを聞いて音のあてっこをして遊びました。

 

退屈した私は画用紙にクレヨンで絵を描き傍におたまじゃくしを

並べて音符(作曲?)を書き、表紙をつけて絵本を作りました。

勿論各ページに私が登場して母が絶対着せてくれないような

ビラビラの服を着せていました。

 

今思うと大げさですが、私の芸術センスみたいなものは病気が

育んでくれたような気もします。その弱虫な私が戦争で

食べ物もなく、着るものもなく、焼夷弾の雨の中を生き抜いて

92歳になっているのは本当に不思議ですねー。

 


No.1 きれいな物

 

母は何時も「キョロキョロしないで歩きなさい!」と言って

私の手を引っ張って歩きました。

私は通りすがりの女性が母より綺麗な着物や服を着て

いるのを見ると気になって振り返ったり歩くのを止めて

眺めていました。

小さい頃お手伝いのつるちゃんが連れて行ってくれた

タカラズカやおばあちゃんが連れて行ってくれた歌舞伎の

衣装の「綺麗」に夢中になってしまったようです。

小学校に入ってPTAの参観日には私が母に一番似合うと

思った紫の矢がすりの着物をっ着て来てほしいと注文を

付けた事も覚えています。

 

お人形の服も買った時の物は脱がしてしまって母にあまり布で

沢山作ってもらいましたし、紙の着せ替え人形には自分が

着たいと思うデザインをクレヨンで一杯描きました。

ミカン箱をもらって全面を千代紙で張ったり、柳行李の上に

薄紙を置いてクレヨンでこすって面白い模様の紙を作ったり

しました。

 

腰下げ、リボン、封筒、何でも綺麗な物を集め、私の部屋は

おもちゃ箱の様で掃除もできなかったと母に言われました。

当時の東横百貨店のおもちゃ売り場で、一つだけ大きな

家具付きのお家があって、「これ、欲しい」と言った時、

父が「これは天皇陛下のお子様のだよ」と言うと「あ、そ」と言って

簡単にあきらめてくれた、と後で笑って居ましたっけ。

母の英語のお弟子さん、原田さん、が「多恵子ちゃんは

美術学校に行かせたらよい」と言って下さったそうです。

 

90歳を過ぎた今もこの部屋だけで100匹くらい可愛い木や

石や布の動物が並んでいます。どうしましょう!